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衡水市
訪問日:20--年-月-旬 『大陸西遊記』~
河北省 衡水市 ~ 人口 435万人、 一人当たり GDP 29,000 元
➠➠➠ 衡水市の 城跡リスト ➠➠➠
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条県城(邸閣城、観州城、景州城)
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信都県城(信都郡城、冀州城、長楽県城)
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衡水県城
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扶柳県城
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昌成県城
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辟陽県城
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条市県城
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龍条県城
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広川県城(棗強県城)
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扶柳県城(澤城県城)
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辟陽県城(阜城県城)
【 衡水市の 歴史 】
衡水市の歴史は長い。早くも夏王朝の時代には、冀州と兖州の 2州に分かれて帰属されていた。この時代、黄河と漳河が運ぶ肥沃な土壌が堆積し、一帯は木材や水草が繁茂する緑豊かな土地柄であったらしい。
商(殷)王朝、西周王朝の時代には、主要な封国の一つであった方国と条氏国の版図下にあり、饒、昌、武城、武羅などの城邑が開設されていた。
春秋時代初期には、北方の遊牧民族であった戎狄らが河北省一帯に跋扈しており、現在の衡水市エリアには白狄族の鮮虞国が建国されていた。上地図。
紀元前 489年、その鮮虞国も晋国により滅ぼされ、全域が晋国の版図下に組み込まれる。戦国時代期には、燕国と趙国の係争地帯となった。 紀元前 295年以降は完全に趙国の領土となる。
紀元前 221年に秦の始皇帝が中原を統一すると、鉅鹿郡が新設され、この管轄下に組み込まれた。上地図。
劉邦により前漢朝が建国された翌紀元前 201年、信都郡が新設される。郡役所は 信都県城(今の 衡水市冀州市旧市街地)に開設された。信都郡下には信都県などの諸県が配されたが、その中で今の衡水市冀州市域に含まれたものは 4県であった(信都県、扶柳県、昌成県、辟陽県)。
同時期、条県(今の 衡水市景県胡庄村)、条侯国(北条城や亚夫城とも別称された)、条市県(今の 衡水市景県大温城村)、龍条県(今の 衡水市景県十王殿村)と 広川県(今の 衡水市景県広川鎮)なども新設されている。
紀元前 155年、前漢朝 6代目皇帝・景帝(劉启)により、その第 8子の劉彭祖が広川国王に封じられ、信都郡が広川国へ昇格される。その王都は、信都県城に開設された。その後、度々復活と廃止が繰り返され、その都度、広川国になったり、信都郡(広川郡)に戻されたりを繰り返す。
紀元前 37年、広川郡が信都国へ改称される(冀州に所属)。紀元前 25年に信都郡へ降格。下地図。
後漢時代、条市県と龍条県が廃止され、条県に吸収合併される(渤海郡に帰属)。このとき、広川県は 清河国(82年に劉慶が封じられる)の版図下に組み込まれた。
後漢朝の治世時代の 72年、明帝(2代目皇帝)が自身の第 6子である劉党を楽成王に封じ、信都郡を楽成国に昇格させる。
その王都は、引き続き、信都県城内に置かれた。当時、衡水市冀州市エリア内には 信都県(今の 衡水市冀州市旧市街地)、扶柳県(今の 衡水市冀州市扶柳城)、辟陽県(今の 衡水市冀州市安興一帯)が存在した。
122年、安帝(6代目皇帝)が 章帝(3代目皇帝)の孫の劉得を安平王に封じ、楽成国を安平国へ改名させる(下地図)。あわせて、辟陽県が阜城県へ改称された。
この頃、冀州の州役所が一時的に 高邑県(今の 河北省邢台市柏郷県の北部)へ移転されるも、前漢時代から宋代を通じ、基本的には冀州役所は 信都県城【今の 衡水市冀州市旧城】)に開設された。
後漢後期の 184年、霊帝(12代目皇帝)が 安平国を安平郡へ改編する。安平郡はそのまま冀州の帰属とされ、郡役所も信都県城に置かれた。後漢末期の 180年代後半には、一時的に冀州役所が 鄴県城(今の 河北省邯鄲市臨漳県鄴鎮)へ移転される。
当時、董卓により冀州牧に任命されていた韓馥は、袁紹、曹操らの反董卓の義兵連合に加わり、鄴県城にて挙兵している(190年)。
翌 191年、冀州に戻り信都県城に駐屯し、北平の公孫瓚の軍と抗争を繰り広げていた韓馥であったが、渤海郡太守の袁紹の経略により、冀州全土を乗っ取られることとなる。下地図。
三国時代期、曹魏の版図下に置かれた。この頃、冀州の州役所が鄴県城から再び信都県城へ移転されている(下地図)。衡水市エリアは、安平郡、博陵郡、渤海郡の 3郡に分かれて統括された。
また、条県の東部が分離され、東安陵県(今の 滄州市呉橋県窯広店村)が新設される。条県と東安陵県、そして広川県は共に渤海郡に帰属した。
西晋朝が建国された 265年、再び安平郡が安平国へ昇格される。 284年には安平国が長楽国へ改称される。信都県城がそのまま王都とされた。
西晋時代もこのままの体制が継承される。 なお、条県の県役所が 邸閣城(今の 衡水市景県古城村)へ移転されている。
南北朝時代の前哨となった五胡十六国時代、北方の 鮮卑族、氐族らの少数民族が中原地帯へ流入するようになり、冀州一帯は 後趙、前燕、前秦、後燕などと為政者のめまぐるしい変遷を目の当たりにすることとなる。
北魏朝の治世下の 396年、冀州役所が鄴県城から信都県城へ移転され、長楽郡、武邑郡、渤海郡の 3郡を統括する州都となる。下地図。
また同時期、条県役所が再び 北条城(今の 衡水市景県中心部)へ戻される。 このとき、広川県は 長楽郡(郡都は 今の冀州市に開設)に帰属された。北斉時代の 556年、広川県が廃止され、棗強県に編入される。なお、今日の衡水市景県広川鎮はかつての棗強県城跡である。
隋代、今の衡水市エリアの南部は冀州に、北部は 深州(596年に新設)の管轄下に置かれる。下地図。
586年、信都県が分割され、長楽県(今の 衡水市冀州市旧市街地区)が新設される。 それまでの信都県城は長楽県城へ改称され、信都県役所が移転される形をとった。 596年には、長楽県から 澤城県(今の 衡水市冀州市扶柳城)が 分離・新設される。また同年、衡水県が新設される。
607年、冀州が 信都郡(郡役所は 信都県城内に開設)に改編される(行政区はそのまま)。 あわせて、信都県と澤城県が 長楽県に吸収合併されることとなる。
唐代初期の621年、東光県から安陵県が 分離・新設される。両県は 観州(643年に廃止され、徳州へ編入)に帰属された。
662年、冀州が魏州へ改称される。州都は、そのまま信都県城が担った。その後、魏州は 672年に冀州へ、742年に信都郡へと改称されていく。最終的に 758年、信都郡が冀州へ改名され、管轄区域は 9県から 6県体制(信都県、南宮県、堂陽県、枣強県、武邑県、衡水県)へ改編される。
651年には安陵県の県役所が 白社橋(今の 衡水市景県安陵鎮)へ移転される。
765年、条県が冀州の、892年には安陵県が景州の管轄下へ移籍される。
その後の五代十国時代、北宋、金朝時代(1128年~)を通じて、信都県城が冀州の州都であり続けた。 1213年にはモンゴル軍により 冀州城(信都県城)も占領されてしまう。
北宋時代、条県は当初、そのまま冀州に帰属されていたが、金朝の支配下の 1154年、景州(今の 滄州市東光県)の管轄区へ移籍される。下地図。
元代の 1236年、観州(1265年に景州へ改称される)の州役所が東光県城から 条県城(今の 衡水市景県古城村)へ移転される。観州(景州)は、冀州と共に 真定路(燕南河北道に所属)に帰属された。
明代にも、引き続き、条県は 景州(河間府に所属)の州都として機能し、呉橋県、東光県、故城県の 3県を管轄した。この時代、衡水市エリアは 冀州、深州、景州の 3州に分かれて統括された。
明代にも引き続き、真定府の管轄下に置かれる。 1369年、ついに信都県城が廃止される。
清代も明代の制度が踏襲される。
1724年には直隷布政司が設置され、河間府の東部が分離されて天津府が新設されるも、 もともと景州下にあった 呉橋県、東光県、故城県の 3県はそのまま河間府の帰属として残される(上地図)。
1724年には冀州が 直隷州(朝延布政司所の直轄)へ昇格される。
中華民国が建国された直後の 1913年、府制、州制が廃止され、県制度へ統一されると、景州は景県へ降格される。1914年、直隷州が冀州へ降格され、冀県が新設される。
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