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衡陽市
訪問日:2014年4月上旬 『大陸西遊記』~
湖南省 衡陽市 ~ 人口 733万人、 一人当たり GDP 30,000 元
➠➠➠ 衡陽市内の 城跡リスト ➠➠➠
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衡陽城(酃県城、臨烝県城、衡州城)
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耒陽県城
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衡山県城
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衡東県城
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常寧県城
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安仁県城
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炎陵県城
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桂陽県城
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嘉禾県城
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藍山県城
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臨武県城
【 衡陽市の 歴史 】
古くは抇越の地に分類され、周朝の時代から荊州の管轄域に組み込まれる。春秋戦国時代以降は楚の国の版図下にあった。
劉邦により前漢朝が建国されたばかりの紀元前 202年、長沙国の管轄下として酃県が設置される。 県役所と県城は蒸水と 湘江の合流地点である、現在の旧市街地あたりに建設される(前漢後期には、酃県の西部が分離され、鐘武侯国が建国されるも、すぐに廃止となる)。
後漢時代の 128年、酃県役所が酃湖の 東岸(今の 衡陽市珠暉区酃湖郷)へ移転される。
また後漢末の献帝治世下の 196年、荊州刺史であった劉表により、 酃県の南東部と烝陽県の東部が 分離・合体され、臨烝県が新設される。臨烝県役所は前漢時代にもともと酃県役所が設置されていた 酃県城跡(2大河の合流地点)に開設される。こうして、零陵郡の下、臨烝県が誕生する。
劉表の死後、劉備がこの地を継承し、荊州 4郡を平定する(208年)。 すぐに、荊州南部の 武陵郡、桂陽郡、零陵郡の 3郡を統括すべく、諸葛亮孔明がこの臨烝県城に一時滞在し、監督業務を司ることになる。当時の荊州は主に河川交通を利用しての移動であったため、湘江と蒸水が合流する臨烝県城のロケーションの良さは最高で、3郡のちょうど中間地点に位置していたためであった。長沙、零陵、桂陽の 3郡へは、すべて河川水系でつながっているのである。
215年、関羽と魯粛による単刀赴会の会談により、長沙郡と桂陽郡が孫権へ返還されることとなり、この臨烝県城も呉のものとなる。呉領の統治下、衡陽市一帯は荊州下の衡陽郡と湘東郡に分かれて帰属されることとなる。耒陽県は、桂陽郡常寧県の下に置かれた。
魯粛の死後、これを引き継いだ呂蒙は荊州奪還のため、零陵郡都に近い臨烝県城を重視したに違いない。
三国時代を統一した西晋朝の時代、荊州が分割され 広州と湘州へと再編される。このとき、今の衡陽市域は湘州側に帰属された。
東晋時代、湘州が廃止され、再び荊州下の湘東郡へ改編される。酃県は臨烝県へ吸収合併され、臨烝県はそのまま湘東郡の中心都市とされた。
南北朝時代の 宋、斉、梁、陳の四王朝のころ、この地域には、重安県(現在の衡陽県)、臨蒸県(今の衡陽市街区)、衡山県、新城県が設置されていた。湘州は 衡陽国(当時、すでに有名であった衡山の南(陰陽の”陽”)にある都市という意味で、命名される)に、耒陽県と衡東県は桂陽郡に帰属された。 特に、このころ湘東郡 臨烝県(今の 衡陽市街区)は、臨烝伯国や 臨烝侯国、新城県などとも別称されている。
589年、隋が南朝の陳国を亡ぼし、全国統一が成る。以後、湘東郡と衡陽郡が合併され衡州となり、また、臨烝県、新城県、重安県の 3県が合併され、衡陽県が新設される。このとき、衡州衡陽県として、州役所と県役所が同時開設された。
唐代の 621年、衡州の下、衡陽県は再び 臨蒸県、新城県、重安県の 3県へ分割される。後に、重安県と新城県は廃止され臨蒸県へ吸収されることとなる。 624年、州役所が湘江東岸から市街地へ移転される。
732年に再び、衡陽県へ戻され、衡州の州役所が開設される。 742年、衡州は衡陽郡へ改名される(758年、衡州へ再度、戻される)。五代十国時代も衡州衡陽県が継承されていく。
北宋の時代、今の衡陽市一帯は衡州と 潭州(長沙市)に分かれて監督された。中心部は、荊湖南路衡州衡陽郡衡陽県のまま継承される。一方、今の 衡山、衡東、祁東は潭州に帰属していた。南宋時代もこの行政区が続く。 1195年、衡州、永州、郴州一帯では農民反乱が勃発するようになり、南宋朝廷が衡州に 枢密院(軍事統率機関)を設置する。
南宋末期、この地でも対モンゴル戦線が張られていた。
この衡州出身の州牧であった 李芾(李忠節公)の率いる南宋軍 3,000人超は、1275年7月より湖南省 長沙城(潭州)に立てこもり、 3か月あまりの籠城戦を続けたが、食糧、武器が底をつき、壊滅する。李芾は戦死。そのとき、この衡陽城に滞在していたのが、当時の南宋政権の 右丞相兼枢密使(軍事総監)の文天祥である。彼は長沙城陥落後、衡陽城を放棄し、福建省や広東省で対元抗戦を続けていくことになる。
元朝時代、衡州路総管府が設置され、今の衡陽市域は衡州路総管府と 永州路総管府に分かれて帰属される(湖広行省の管轄下)。衡州路城(衡陽県城)には 湖南道宣慰司(後に潭州城へ移転)が開設される。1337年、衡陽県の東南部分が分離され、新城県が復活する。
明代は湖広行省の下、衡州府が置かれる。衡陽県(1377年に新城県を吸収合併)、衡山県、衡東県、常寧県、耒陽県、安仁県、炎陵県、桂陽県、嘉禾県、藍山県、臨武県を統括した。明朝後半は、雍王を封じ、桂王藩国を建国させ、その王都に衡陽城が選定される。
明末から清初の時代、清朝による中国全土の統一戦争の最中に衡州の戦いが行われた場所として有名である。
明将軍・張献忠の養子として各地を転戦した 李定国(1621~1662年)であったが、養父の死後の 1652年、その軍勢 8万を引き継いで湖南方面へ出撃する。早々と、清領となっていた 沅州(今の 湖南省黔陽)、靖州(今の 湖南省邵陽)を再奪取し、そのまま広西省桂林へと進軍し、清軍の将軍で、定南王となっていた孔有徳を桂林城にて自殺に追い込むことに成功する。桂林を平定後、そのまま 柳州(広西省)や 衡州などの 4州を陥れ、先鋒隊を更に長沙城へ派遣するに至る。
しかし、清軍が 10万の大軍を派遣したという一報を聞き、李定国はいったん長沙城包囲を諦め、衡州へ撤兵する。
清軍の総大将であった親王の尼堪はそのまま追撃に出て、衡州へ迫る。李定国は衡州城の周囲に兵を隠して、清軍の襲来を待ち、一気に取り囲んで清軍を壊滅させ、総大将の尼堪を討ち取ることに成功する。
しかし、呉三桂率いる清軍 10万が ミャンマー(ビルマ)方面で兵を展開し、永楽帝を捕縛して 1661年に処刑してしまう。その翌年、この一報を聞いた李定国は憤慨のあまり病死したという。
こうして大陸中国は清朝により統一され、1683年には台湾の鄭氏も降伏するに及び、完全に明朝勢力は駆逐されることとなった。
清朝下の 1664年、湖南省衡永郴桂道衡州府衡陽県となる。
清朝が建国された後の 1675年、呉三桂を中心に三藩の乱が勃発し、呉三桂の軍は湖南省まで勢力を拡大し、1678年、この衡陽城で皇帝に即位し、国号を周として、衡州府を定天府と命名する。あわせて、今の衡南県の共産党庁舎がある一帯に王宮建設を進める。しかし、その半年後に呉三桂は病死し、 孫の呉世璠が皇位を継承するも、1681年に昆明まで清軍に追われて滅亡する。
清朝時代に衡州府となり、衡陽、衡山、衡東、常寧、耒気、安仁、炎陵、桂陽、嘉禾、藍山、臨武 を管轄した。 1732年、桂陽州が桂陽直隷州へと昇格され、その管轄域はさらに北へ拡大され、耒陽市、常寧市までも含むこととされた。
1756年、蒸水に区切られた衡陽県の東南一帯が分離され、清泉県が新設される。このまま清末まで衡州府の行政区は継承され、近代を迎えることとなる。
共産党による建国後の翌 1950年、早くも現在の衡陽市制が開始され、今日に至る。
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