BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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黒竜江省 黒河市 ~ 人口 160万人、 一人当たり GDP 35,000 元


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  旧璦琿城 (【初代】黒竜江将軍衙門)
  新璦琿城(黒竜江城、【二代目】黒竜江将軍衙門、璦琿副都統留守)
  墨爾根城(【三代目】黒竜江将軍衙門、黒竜江右翼副都統、墨爾根副都統、嫩江府城)
  失宝赤屯田万戸府城(元王朝時代に開設。今の黒河市孫呉県霍爾莫津村)



【 黒河市の 歴史 】

黒河市の歴史は古く、考古学的調査により、早くも旧石器時代には古代人類の生息が確認されている。旧石器時代後期には、アムール川(黒竜江 = 現在、中国・ロシアとの国境を成す河川)流域を中心に、広く集落が分布していたという。

紀元前 16世紀、今の黒河市北部、東部の嫩江沿いに勢力を張った穢貊族は(下地図)、同時期の 殷(商)王朝時代から、「東胡黄羆、山戎戎蓀」の民として、すでに中原で知られる存在となっていた。
西周時代初期には、アムール川(黒竜江)の中下流域に勢力を有した粛慎族が、周王朝へ朝貢していたことが分かっている。

黒河市

時は下って、前漢時代~三国時代には、扶余国に属した。上地図。

中原で唐王朝が建国された 100年後の 698年、中国東北部でも、粟末靺鞨人を主体とする渤海国が立国される。さらにその北部、特に アムール川(黒竜江)の中下流域には、渤海国と敵対する 黒水靺鞨国(女真族の祖先)も形成されていた。当時、渤海国が先に唐朝廷に朝貢していたにもかかわらず、722年に黒水靺鞨国も朝貢を行って、唐王朝の庇護下に加わると、726年、唐玄宗は黒水靺鞨国を直轄化すべく、黒水都督府を新設する(下地図)。以後、唐朝廷から直接、任命された 役人(長史)が派遣されてくることとなると、唐王朝に挟まれる形となった渤海国は危機感を露わにし、732年、対唐戦争を開始する。初期は優位に戦争を進めた渤海国であったが、次第に長期戦に突入し、最終的に 唐王朝・玄宗に謝罪の使者と人質を差し出し、赦される。こうして中国東北部は再び、安定を取り戻したのだった。
792年、唐王朝はさらに北部の室韋族の勢力圏をも併合し、室韋都督府を新設する(下地図)。

その後、唐王朝の衰退と 渤海国の台頭により、黒水靺鞨国は併合され、 815年には唐王朝も黒水都督府を廃止する(ほぼ同時期、室韋都督府も解体される)。

黒河市

金王朝の治世下、上京路下の蒲峪路に属した。

元代初期には遼陽行省下の 開元路万戸府(行政庁は、黒竜江省牡丹江市 東寧市三岔口村附近、に開設)に、中期以降は遼陽行省下の 水達達路(行政庁は、金王朝時代の 王都・旧上京城に開設)に統括される。アムール川流域に通じる水路と共に、陸上交通のための「駅赤(モンゴル族独自の駅伝拠点)」が、数多く整備されたという。

明代には、奴爾干都司が新設され(下地図)、女真族や契丹族らを統括した。さらに、各地の拠点に 衛、所、駅、面、寨などが配置され、広大なエリアの統治拠点とされる。このとき、現在の黒河市域の大部分は、薩哈連支部(黒竜江支部)に属した。

この時代、中国商人が満州地方に張り巡らされた河川交通を利用し、各地の 少数民族(アムール川河口の対岸の樺太に生息していたアイヌ人など)と、物々交換取引(山丹交易)を行っていたが、次第に東方へ進出してきたロシア人と取引や領土をめぐって、紛争が頻発するようになる。

黒河市

明朝が滅び、清王朝が建国された頃、ロシア帝国側は度重なる探検隊を派遣し、拠点ごとに要塞を建造していく。これに対抗すべく清朝政府は、 1683年12月13日に黒竜江北岸の旧璦琿城に 黒竜江将軍衙門(1名将軍と 2名副都統を配置)を新設する。翌 1685年、黒竜江将軍衙門(行政庁)が、黒竜江南岸の 新璦琿城(黒竜江城。現在の黒河市愛輝区愛輝鎮)へ移転されると、満州兵 500名も異動された。

黒河市

ちょうど、このタイミグで清露間で国境紛争が勃発すると(下地図)、 1689年にネルチンスク条約が締結され、いったんは国境が確定する。翌 1690年、黒竜江将軍衙門(行政庁)が、墨爾根城(今の 黒河市嫩江市中心部)へ再移転される。 同時に黒竜江右翼副都統が墨爾根城に、璦琿副都統留守が新璦琿城に開設される。以降、現在の黒河市全域は璦琿副都統留守に統括された。

1699年、黒竜江将軍衙門(行政庁)と 黒竜江右翼副都統が、チチハル市(斉斉哈爾市)中心部へ再移転されると、以後、200年以上にわたって、チチハル市が現在の黒竜江省エリアの中核都市となるのだった。以降、墨爾根城は守城尉のみ残留されるも、1710年には墨爾根副都統が新設される(最終的に 1908年、嫩江府へ改編される)。

黒河市

しかし、近代化を進めたロシア帝国の東方拡大はますます進み、 1858年の アイグン条約(璦琿条約)、1860年の北京条約で、ついにアムール川北岸全域がロシアに奪われることとなる。以後、現在の黒河市が清朝側の最北端となった。

中華民国時代、現在の黒河市域の大部分は、黒河道に統括されるも、1931年9月に満州事変が勃発すると、1933年1月25日には、黒河市域まで日本軍の軍事占領が到達する。翌 1934年12月1日、日本統治下で黒河省が新設されるも、1945年8月、日本の敗戦により、黒河市も中華民国に返還される。


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