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合肥市
訪問日:20--年-月-旬 『大陸西遊記』~
安徽省 合肥市 ~ 人口 940万人、 一人当たり GDP 130,000 元
➠➠➠ 合肥市内の 城跡リスト ➠➠➠
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合肥県城(揚州城、汝陰県城、南汝陰郡城、南豫州城、汝陰郡城、廬江郡城、廬州府城)
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慎県城
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合肥新城(三国時代、魏国の淮南郡城)
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巢県城(【二代目】廬州城ー南宋時代)
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廬江県城
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浚遒県城
【 合肥市の 歴史 】
現在の合肥市エリアでは、既に新石器時代、古代人類の存在が確認されている。
春秋戦国時代、最初は楚国に、後に 呉国、越国の版図下に組み込まれるも、最終的に楚国領に再併合されることとなった。
紀元前 221年、秦の始皇帝が中原を統一すると、中央集権体制の確立が図られ、全国に郡県制が導入される。この時、現在の合肥市一帯は九江郡に属した。下地図。
秦王朝を滅ぼした直後の紀元前 206年、項羽は、自身の忠臣であった英布を九江王に封じる(九江郡を九江王国へ改編。王都は、英布の故郷であった六県城 ー 現在の
安徽省六安市
ー に開設)。
同年、 浚遒県が新設される(下地図)。県役所は、現在の合肥市肥東県石塘鎮龍城社区に開設されており、今の合肥市域内で最初に開設された県城となった。
しかし、紀元前 203年、楚漢戦争を経て項羽が戦死すると、勝利した劉邦により前漢王朝が建国され、対項羽戦に協力した 九江王・英布が淮南王に任じられる(九江郡、廬江郡、衡山郡、豫章郡の 4郡を統括した)。直後より、劉邦による建国の功臣らの粛清がスタ―トすると、自身の身の危険を感じた英布も挙兵を迫られ、最終的に敗死する(紀元前 196年)。英布を滅ぼした劉邦は、代わりに自身の第七子である劉長を淮南王に封じると、王都も 六県城(今の
安徽省六安市
)から、寿春県城(今の
安徽省淮南市
寿県)へ遷都させるのだった。
紀元前 174年、劉長が前漢朝への不遜な態度を警戒されて、自殺(餓死)に追い込まれると、淮南王国も廃止されるも(淮南郡へ改編)、紀元前 163年、劉長の 長男・劉安が淮南王に封じられ、再び淮南王国が再立国される。しかし、紀元前 122年、7代目皇帝・武帝により、謀反の嫌疑をかけられた劉安も自刃させられると、淮南王国は九江郡へ改編される。
このタイミングで、合肥県が新設される。当時、東淝河と南淝河の両河川の源流に位置したことから、この地名が造語されたと考えられている。紀元前 106年、全国が十三州に分割されると、浚遒県と合肥県は揚州下の九江郡に属した。下地図。
後漢朝が建国された直後の 25年、合肥県が合肥侯国へ改編される。後漢末期の 200年、合肥侯国が廃止され、合肥県が復活設置される。以後、揚州の州役所が合肥県城に併設されることとなる。
三国時代、浚遒県と合肥県は、魏国下の 淮南郡(袁術の旧領をまとめて編成された)に帰属した。引き続き、合肥県が揚州の州都を務める。西晋時代初期の 280年、九江郡が廃止され、淮南郡(郡都が、合肥新城【今の 安徽省合肥市廬陽区三十崗郷陳龍村】から、寿春県城【今の
安徽省淮南市
寿県】へ移転)へ吸収合併される。
南北朝時代がスタートすると、淮河流域に位置した浚遒県と合肥県は、南北王朝が国境を接する最前線に位置し、多いに戦火に巻き込まれることとなった。住民人口は激減し、最終的に浚遒県と合肥県も廃止され、淮南郡自体が旧県域を直轄することとなる。
南朝の劉宋王朝の治世下、南汝陰郡城(旧・合肥県城)に汝陰県役所が新設される(南豫州に帰属。下地図)。また、ちょうどこの頃、慎県城が今の合肥市肥東県梁園鎮に開設される。
梁王朝下の 506年、南汝陰郡が廃止され、汝陰郡に吸収合併される。汝陰県城が引き続き、汝陰郡の郡都を兼務する。526年には、南豫州の州都も兼ねることとなった。 547年、南豫州が合州へ改称されると、汝陰県は引き続き、合州の州都、及び汝陰郡の郡都を兼務した。
北朝方の勢力が強大化した 579年、合州も北周王朝の支配下に組み込まれる。
北周王朝からの権力禅譲により隋王朝が建国されると(581年)、汝陰県が合肥県へ、合州が廬州へ改称される。引き続き、廬州の州都を務めた。煬帝が隋朝 2代目皇帝に即位すると、廬州が廬江郡へ改編され、合肥県城がそのまま廬江郡の郡都を兼務する。下地図。
唐代初期の 620年、廬江郡が再び、廬州へ改編される(州都は 合肥県城)。 627年、全国が十道に分割されると、以降、廬州(742~758年に、廬州は一時的に廬江郡へ改編される)は淮南道に属した。
唐代末期、各地で農民反乱や群雄割拠が進む中、廬州下の一将軍であった 楊行密(852~905年)が、廬州刺史(883年)、淮南節度使(892年)、呉王(902年)に封じられて、このエリアの支配権を確立すると、自らの 故郷・合肥県城に呉国の王都を開設する(合肥県城【廬州城】は、昭慶軍節度 に帰属)。
最終的に、楊行密の 四男・楊溥が 4代目呉王を継承するも、家臣の徐知誥に権力を簒奪され、呉国は滅亡し、南唐国がその領土を継承することとなる(937年)。以降、合肥県城【廬州城】は、保信軍節度に統括された。五代十国時代を通じて、この南唐国の勢力も長江南岸へと追いやられると、後周朝の支配地に併合される(950年代)。引き続き、合肥県城(廬州城)は、保信軍節度に属した。
北宋時代の 993年、淮南道(997年に淮南路へ、1072年に淮南西路へ改編)が新設されると、合肥県城(廬州城)はこれに属した。上地図。
南宋朝が建国された直後、廬州の州役所が 巢県城(今の 合肥市巣湖市)へ移転される。金王朝の南下政策により、合肥県城(旧・廬州城)も占領されてしまうも(下地図)、1141年、南宋軍が再奪還に成功する。 1169年、廬州の州都が合肥県城へ戻される。
元代の 1277年、廬州が廬州路へ昇格されると、引き続き、その首府を兼務した。
1363年、朱元璋が廬州城を占領すると、廬州路が廬州府へ改編される。以後、廬州府は明代にかけて、1368年に新設された中書省に、1379年には新設された六部に、 1420年には
南京
直隷に統括されるも、廬州府以下の県行政区はそのままが踏襲される。
清代初期の 1645年、南京直隷が江南省へ改編される。1660年には江南左右布政使司が、 1667年には安徽布政使司が新設される。1850年代に至ると、安徽巡撫役所が合肥県城に併設されることで、ついに
安徽省
の省都としての地位を確立する。
中華民国が建国された直後の 1912年、廬州府が廃止され、合肥県は安徽省に直轄される。日中戦争初期の 1938年5月、日本軍が合肥県城を占領すると、中華国民政府は、県役所を大潜山の北麓にある 鴿子籠圩子(今の 合肥市肥西県銘傳郷)へ移転させ、引き続き、抵抗を続けることとなった。
こうして隋代から明代、清代にかけて、合肥市は一貫して廬州府の府都を兼務しており、「廬州」「廬陽」「合淝」と通称されてきた。市域内には高い山はなく、なだらかな丘陵が続く平原地帯が広がっており、温暖湿潤の気候もあって、非常に肥沃な土地柄であったという。 1952年、共産党政権下でも安徽省の省都に定められると、今日までその絶対的地位を不動のものとしている。現在、合肥市は「廬」もしくは「合」と略称される。
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