BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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陝西省 漢中市 ~ 人口 342万人、 一人当たり GDP 24,000 元


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  南鄭県城(漢中郡城、梁州城、光義県城、漢川郡城、興元府城)
  虎頭橋(三国時代、魏延の殺害現場)と魏延墓
  褒城県城(褒中県城)
  武郷県城(白雲県城)
  沔陽県城(沔県城)と陽平関(白馬城、張魯城)
  武侯墓(諸葛亮孔明の墓)、馬超墓、定軍山と古戦場
  漢城(三国時代、諸葛孔明が築城した城)
  楽城(三国時代、諸葛孔明が築城した城)
  城固県城
  張騫記念館・蕭何墓・樊哙墓(前漢建国の功臣らの記念墓)
  秦嶺山脈と蜀の桟道



【 漢中市の 歴史 】

春秋時代期、今の漢中市エリアは秦国の版図下に組み込まれていた。その秦国により紀元前 451年、今の漢中市中心部に南鄭県城が築城される。

しかし、四川盆地に勢力を張った蜀国との度重なる争奪戦が続き、幾度となく漢中一帯は蜀に奪われることとなる。秦嶺山脈 を超えて援軍を送らねばならなかった秦側の方が圧倒的に、不利であったはずである。
漢中市

しかし、秦嶺山脈の北部で勢力を増幅させた秦は、ついに紀元前 316年、蜀国と巴国の本拠地まで遠征軍を派遣し、これを滅ぼすことに成功する。
こうして四川省を含め、漢中市一帯は完全に秦国の領土下に帰属されることとなる。
他方で、南部の大国・楚は、四川盆地を上流に持つ長江から川を下って楚本土への攻撃ルートが確立した秦国の存在に脅威を感じ、紀元前 312年、丹陽の戦いを挑むも、秦に大敗してしまう。

こうして中国西部における秦国の絶対的な支配圏が確立する。秦により漢中郡が新設され、 その郡役所は 西城県城内(今の安康県)に開設された。以後、漢中市 中心部(南鄭県城)は漢中郡の管轄下に置かれた(下地図)。

漢中市

紀元前 221年、秦の始皇帝が中原を統一すると、すぐに全国直接統治のための郡県制が導入される。このとき、南鄭県は引き続き、漢中郡に帰属した。

その秦朝も紀元前 206年に滅ぼされ、項羽の覇権が確立する。項羽により各諸侯への所領配分が実施され、劉邦は漢王として、蜀郡と漢中郡下の 31県を分与される。このとき、劉邦は南鄭県城を王都と定める。
この後、劉邦は韓信を大将軍に任じ、その策を取り入れ中原へ出撃し、項羽に戦いを挑むことになる。最終的に楚漢戦争を制した劉邦は、紀元前 202年、前漢朝を建国する。今日の「漢」民族の名も、この「漢」王朝から来ており、 それはつまり、「漢中」の地名に由来すると言える。
王都を長安城に移した劉邦は、以後、秦代の行政区を踏襲し、漢中郡下の南鄭県に戻す(益州に帰属)。

その前漢朝も紀元 8年に王莽により王権を簒奪され、滅亡する。
王莽は新たに新朝は建国するも、その政治は周囲の軍閥や農民から反感を買うこととなり、大規模な 農民反乱(赤眉の乱)が勃発する(下地図)。

漢中市

最終的には前漢王朝の皇室につながる 劉玄(更始帝)が軍閥勢力をまとめて、紀元 23年、新朝を滅ぼすと、そのまま長安城に 入城する。翌 24年、皇室の将軍であった劉嘉が漢中王に封じられて、南鄭県城を本拠地とすることとなる。
同年、劉玄(更始帝)は巴蜀の地に割拠する軍閥勢力であった公孫述を滅ぼそうと遠征軍を派遣するも大敗し、逆に、漢中へ進軍してきた公孫述らに漢中郡を奪取されてしまう。

その翌年の 25年、赤眉の反乱軍により 劉玄(更始帝)の勢力が壊滅すると、その部下であった劉秀が台頭し、中国各地の軍閥勢力を糾合して、後漢王朝を建国するに至る。

これに対抗すべく、巴蜀の地で勢力を張った公孫述も同年、蜀王を号し、国号を「成家(王都である成都に由来)」とする独立国を建国するに至る。

中原で軍閥勢力をまとめつつあった劉秀の率いる後漢王朝は、いよいよ隴西方面への平定戦を開始する。これを警戒した公孫述は紀元 30年、漢中郡の郡役所を東側にあった 西城県城(今の安康市)から南鄭県城へ移転させる。こうして以後、この南鄭県城が漢中地方の中心都市として君臨し続けることとなったわけである。

漢中市

しかし、33年に(漢中郡の北部にあった)隴西郡を攻略した後漢朝は、ついに四川進軍を決行し、36年に公孫述を成都城まで追い詰め滅ぼすことになり、中国は再び統一される(上地図)。

後漢朝の治世下の 75年、漢中郡下の褒城県が褒中県へ改称される。 今の漢中市 中心部(漢台区)にある 新溝橋、宗営、張寨、褒河などの郊外一帯を統括していた。県城は 打鐘寺壩(今の新溝橋郷打鐘寺の南側)にあったという。

漢中市

しかし後漢朝も例にもれず、末期となると中央政界は乱れ、地方での統制力が弱まっていく。 こうした中央政権の弱体化を反映して、地方では有力豪族や 軍閥、民族らが台頭してくることとなった(上地図)。

このころ、漢中郡では自然環境の悪化から巴郡の山岳地帯より少数民族が流入・襲撃してくるようになり、これに悩まされた漢族の黄巾族と呼応して、五斗米道なる新興宗教集団を率いた 張修が決起し、無策な巴郡の郡役所を陥れ、漢中平野一帯をも占領してしまう。官軍や地元豪族の敗残兵らは益州の劉焉の下へ帰参する。そして、170年代には、五斗米道が漢中郡全体を完全に掌握することとなる。 部下であった張魯は張修を追放し、その後、30年続くことになる政教一致の宗教団体による漢中統治時代をスタートさせる。191年には、漢中郡を漢寧郡へ改称している。その中心都市は引き続き、南鄭県城におかれた。

当初、益州牧の劉璋に帰順する形で、領土安泰を図った張魯も、 200年に離反し、完全独立国となる。このとき、成都城内に人質として住んでいた自分の母と弟の張徴は劉璋側に逮捕され、処刑されてしまう。さらに、劉璋は張魯の勢力に対抗すべく、巴西に龐羲を太守として派遣するも、張魯に扇動された巴郡地域での大規模な民衆反乱に手を焼き、蜀国内が乱れて対張魯戦線は膠着状態となっていく。

漢中市

この膠着状態の打破を劉備の援軍に依頼した劉璋であるが、逆に蜀を奪われてしまう。ちょうど同じころ、215年3月、魏の曹操が散関から武都郡を通り、漢中へ侵入してくる。同年秋、張魯は弟の張衛が陽平関の戦いで敗走するに至り、益州側の巴中の山岳地帯へ逃亡する。しかし、曹操側の降伏勧告を受け入れ、漢中の南鄭県城へ戻る。こうして漢中郡と 3巴郡(巴東、巴西、巴)を領有した曹操は、漢寧郡を漢中郡に再改名し、漢中郡から 安陽・西城の 2県を分けて 西城郡(後に魏興郡)、錫と上庸の両県を分けて上庸郡(後に新城郡)とし、それぞれに太守と都尉を派遣し、 自身はそのまま王都の鄴へ帰還してしまう(上地図)。このとき、漢中郡の守備を任されたのが、夏候淵であった。

一方、益州を奪取したばかり劉備にとって、曹操による 漢中郡、3巴郡(巴東、巴西、巴)占領は危機的状況に映り、法正、黄権らの意見を取り入れて即座に 3巴郡(巴東、巴西、巴)侵攻、および、漢中郡攻撃を計画する。このとき、張郃と張飛による 50日間もの山岳地帯での戦闘、黄忠による定軍山の戦いなど、三国時代の蜀軍全盛期の戦闘シーンが繰り広げられていく。
そして、漢中全域を完全平定した 216年、劉備は漢中王を称することとなる。こうした背景から漢中市内には、多くの三国志遺跡が残り、三国志ツアーで必ず立ち寄るべき地となっている。

漢中市

時は下って 263年夏、魏の司馬昭は弱体化が著しい蜀の征討を決定する。兵力不足に陥っていた蜀の漢中防衛戦線は、魏軍の捨て駒作戦で封じ込められ、数で勝る魏軍は残りの主力で一路、成都へ迫る作戦をとる(上地図)。
当時、蜀軍の漢中防衛の要であった 漢城(今の勉県東部)楽城(今の城固県北部) の守備兵は身動きがとれないまま蜀滅亡の日を迎えることとなってしまうのであった。

蜀の姜維軍は魏軍主力の成都攻略を阻止すべく、剣閣に籠城することになる。しかし、数で勝る魏軍はさらに別働隊を編成し、成都へ迫り、劉禅を降伏させるに至るのであった。
こうして蜀は滅亡し、魏により再び漢中郡が接収されることとなる。
西晋朝の治世下の 266年、益州が分割され、梁州が新設される。その州役所が南鄭県城に開設される。

289年には、晋の皇族であった司馬允の子の司馬迪が漢王に封じられ、梁州は漢国へ変更される。しかし、300年の司馬允の乱の失敗に連座し、司馬迪も 同時にとらえられ処刑される。こうして漢国は廃止されてしまうのであった。

漢中市

東晋時代の 373年、東晋より派遣されていた梁州刺史の楊亮が前秦の符堅により追放され、前秦の将軍である朱彤が漢中を占領し、前秦の領土下に組み込まれる(上地図)。

しかし、384年に前秦朝から派遣されていた梁州刺史の潘猛が漢中を放棄し、長安へ逃走したため、梁州の地は再び、東晋の版図となる。413年、褒中県が苞中県へ改称される。

南北朝時代(420~589年)、引き続き、南鄭県城内には州役所と郡役所が併設されて、漢中の中核都市であり続けた。他方、苞中県は廃止されることとなる。

504年にはそれまで南朝の支配下にあった梁州と秦州刺史の夏侯道が北魏へ帰順することで、漢中市一帯も北魏の領土下に組み込まれることとなる(下地図)。

漢中市

511年、褒中県が復活され、同時に褒中郡が新設される。褒中県役所と褒中郡役所は共に、以前からの 打鐘寺壩(今の 新溝橋郷打鐘寺の南側)に開設された。褒中郡は 褒中県、武郷県(今の 漢台区武郷鎮)、廉水県の 3県(後者 2県は南鄭県の北部が分離され新設された)を統括することとなる。

535年には漢中一帯は梁朝の版図下に組み込まれ、このころ、廉水県が廃止されて、南鄭県の行政区に再編入される。551年、漢中市エリアは再び西魏に再奪取される。
西魏の統治下の 554年、南鄭県は光義県へ、武郷県は白雲県へ改名される。
北周朝の時代、漢中郡が漢川郡へ改称される。

南北朝時代を統一した隋王朝初代皇帝・文帝の治世下の 581年、光義県が再び南鄭県へ戻される。

583年には漢川郡が梁州へ改編されるも、2代目皇帝・煬帝の時代、再び、梁州から漢川郡へ改編され、白雲県は廃止され南鄭県へ吸収合併されることとなる。

612年、南鄭県城が南西側へ 移転・新築され、漢水のほとりの現在の位置に築城されることとなる。これが今の漢中市 中心部(漢台区)の旧市街地である。

漢中市

唐代の 618年、漢川郡が廃止され、梁州が再設置される。 620年には再び南鄭県の北部が分離され、白雲県が設置される(626年には白雲県は再廃止され、今度は城固県に編入されることとなる。629年に褒内県が褒城県へ変更される(上地図)。

784年3月、中原地域での反乱に直面し、唐朝皇帝の 李适(徳宗)が南鄭県城まで避難してくる。同年 6月に反乱軍が平定されると、再び王都である長安城へ凱旋する。このとき、一時滞在した梁州を興元府へ改称し、南鄭県を赤県へ変更するよう、詔勅が出される。
また、長安城の近郊である近畿下の諸県と同等に取り扱う旨も言及されたほどであった。

興元の地名は、以後、明代の 1370年5月に至る 586年もの間、使用されることとなる。

唐末期のからの五代十国時代、前蜀、後唐、後蜀、北宋の版図下に組み込まれ、目まぐるしく為政者の変遷を見ることとなる。

漢中市

北宋により中原が統一されると、南鄭県は峡西路興元府下に所属されることとなり、峡西路役所、興元府役所がともに南鄭城内に併設される(上地図)。

1060年ごろ、褒城県役所が打鐘寺壩から 山河堰西(今の 漢中市勉県紅廟郷褒城村)へ移転される。
1072年、峡西路から利州路が 分離・新設される。南鄭県城内には利州路と興元府役所が置かれた。 1144年には利州路が利州東路と利州西路に分割され、南鄭城は利州東路の中心都市とされた。

元代に入り、陕西行中書省が新設され、また興元府が興元路へと改編される。このとき以後、南鄭県は益州側から陕西省の帰属となる。

明代初期の 1370年、興元路が漢中府へ改称される。1376年、陕西行中書省が陕西承宣布政使司へと改編されるも、引き続き、南鄭県はここに属される。

漢中市

この明代に、知府とした赴任していた費震により、宋時代の漢中城郭が大幅改修され、今日に残る規模へと拡張されている。

なお、明を建国した朱元璋により、中国全土で多くの地元豪族らが粛清され、皇帝自身の皇子らを代わりに各地方へ派遣し、皇族による直接統治体制が敷かれていった。
この漢中城にも王子が派遣され、「王府」と呼ばれた居城が建造されるに至る。その皇室用の王府跡として、今の蓮湖池公園内に石碑が建てられている。その後も、王府にはますます修繕が加えられ、規模と豪華さはますます増していったようである。その敷地は、南は現在の西大街から北は城壁まで、西は北教場糧庫までにも至ったという。その面積は、当時の漢中城の 3分の 1を占めていた。現在に残る石獅子壩が、かつて王府正門のあった場所であり、この門前に、 2匹の獅子像が備えられていたので、この地名になったという。
また、現在の祥瑞巷は、かつての王府前に通っていた 第一巷(路地)であったらしい(現代に入り、蓮湖路の工事で撤去されてしまった)。
ちなみに、西域の瑞王藩国の使節との面会も、この漢中城内で漢王により実施されている。

漢中市

この豪華絢爛な王宮も、明末の李自成を中心とした民衆反乱の渦中にあって、庶民らに破壊されてしまったという(上地図)。

明末の混乱に乗じて中原に進出した清朝は、全国統一後、明代の行政区を踏襲して統治体制の整備を進めることとなる。

その清朝も末期の 1863年春、太平天国軍により漢中城は西側より攻撃を受け、同年 8月に漢中城は陥落する。このとき、 南鄭県長官であった周蕃寿は処刑されてしまう。しかし、後に近代兵器をそろえた清軍により鎮圧される。

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