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杭州市
訪問日:20--年-月-旬 『大陸西遊記』~
浙江省 杭州市 ~ 人口 885万人、 一人当たり GDP 97,000 元
➠➠➠ 杭州市内の 城跡リスト ➠➠➠
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杭州府城(銭唐県城、銭塘県城、余杭郡城、臨安府城)
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余杭県城
【 杭州市の 歴史 】
杭州市一帯では、8000年以上前より人類の生息が確認されており、5000年前には余杭良渚文化という古代文明が華やいだとされる。
春秋時代においては、呉越の両国による熾烈な争奪戦が繰り広げられた地となった(下地図)。
杭州市エリアは元々、越国の領土下に属したが、会稽山の戦いの後、一時的に呉領下に組み込まれる。しかし、最終的に呉国が越国に滅ぼされて以降(紀元前 473年)、越国の版図下に再編入された。その越国も紀元前 334年、西の 大国・楚により滅ぼされると、杭州市一帯も楚領となった。
続いて、その楚国も紀元前 223年に秦国により滅ぼされる。その翌年に斉と燕をも滅ぼした秦国により中原の統一が成り、すぐに全国に郡県制が施行される。このとき、(今の西湖の西側にある)霊隠山の山麓に県城が築城され、銭唐県と命名される(会稽郡に所属)。これが、今の杭州市の発祥となった(当時は西湖までが海岸線であった)。下地図参照。
このころ、海岸線がすぐ間近まで迫っており、銭唐江と海との河口部に位置する都市であったようである。後世、杭州の名所となる西湖も、未だ形成されていなかった。
前漢王朝に入っても、秦代の行政区がそのまま継承された。
王莽の新朝時代、一時的に銭唐県から泉亭県へ改称されるも、復権した後漢朝により再び銭唐県へ戻される(呉郡に帰属)。
後漢時代の頃から杭州市一帯で農地開墾が進み、宝石山(西湖の北側)から 万松嶺(西湖の南側の鳳凰山)の南北ラインに防波堤が建設され、今の西湖一帯が海と断絶されるようになる。こうして、徐々に内地の淡水湖が形成されるようになったわけである。
三国時代から東西晋朝、南北朝時代を通じて、杭州市エリアは 呉興郡(三国末期の 266年に新設された。郡役所は今の湖州に開設)に所属した。
東晋時代の 326年、インド仏教を学んだ慧理により飛来峰の麓に霊隠寺が建立される。これが西湖に現存する最古の木造建築となる。
南北朝時代の梁朝の治世下の 549年、銭唐県が臨江郡へ昇格される。続く、陳朝時代の 587年、銭唐郡へ改称され、引き続き、銭唐県、于潜県、富陽県、新城県の 4県を統括することとされた(呉州に帰属)。
南北朝時代を統一した隋朝は 589年、全国の郡制を廃止し、州制へ改編させる。このとき、史上初めて「杭州」の地名が使用されることとなる。その管轄下には 銭唐県、余杭県、富陽県、塩官県、于潜県、武康県の 6県が配された。
最初、州役所は余杭県城内に開設されたが、早くも翌年、銭唐県城へ移転されている。
さらに翌年の 591年、霊隠山と連なる鳳凰山の山上に、新たに銭塘県城が 築城・移転される。ここから杭州の大発展がスタートする。
隋朝 2代目皇帝・煬帝の治世下の 607年、杭州は余杭郡へ改称される。そして、全長 400 km以上もある江蘇鎮から続く巨大運河の掘削工事も開始され、その最終点が鳳凰山の山麓部の 海岸線(今の杭州市内の拱宸橋)となり、この絶好のロケーションがその後の杭州 経済・文化の発展に大きな影響を及ぼすこととなったわけである。この頃、最初の人口統計がとられ、余杭郡には 15,380戸の登録戸籍が記録されている。
唐代に入ると、余杭郡が杭州郡へ改称され、郡役所は引き続き、銭唐県城内に設置された。 621年、「唐」という王朝名とだぶるということで、銭唐県が銭塘県へ変更される。唐代において、杭州は 銭塘県、塩官県、富陽県、新城県、余杭県、臨安県、于潜県、唐山県の 8県を統括した。
五代十国時代に入り、この江東の地域は呉越国の版図下に置かれた。呉越国は、その初代君主となった銭鏐の出身地であり、かつ軍事活動の拠点であった 杭州城(銭塘県城)を、王都に定める(西府と改称)。以降、5代 85年の治世下、王都・杭州城では大規模な拡張工事が繰り返され、全国でも有数の大都市へと発展を遂げていくこととなった。
まず、呉越国の初代君主の銭鏐により、鳳凰山に「子城」が建設され、内部の王宮内にて国政が執り行われることとなる。さらに、全長 35 kmにも及ぶ外側の城壁が増築される。すなわち、西は秦望山から、南は銭塘江、東は江干、 北側は 銭塘湖(西湖)から宝石山にまで連なる長大なスケールを誇ったという。その形状が腰鼓に似ていたっため、腰鼓城とも別称されたようである。
呉越王らは運河の起点都市というロケーションも勘案し、水利灌漑工事も重要視する。西湖の水を城内に流れる 運河・小川に積極的に引き込むとともに、銭塘江の沿岸には石積みの防波堤を建設し、さらに埋立て工事を進めて潮の流れの緩慢に影響されない土地の確保を奨励した。あわせて、海上交通ルートも整備し、操舵技術の向上とも重なり、沿岸航路が拡大されていった。
北宋朝の時代、杭州は両浙西路の中心都市として機能する。1107年には、杭州府へ昇格され、銭塘県、仁和県、余杭県、臨安県、于潜県、昌化県、富陽県、新登県、塩官県の 9県を統括した。当時、杭州の居住人口は 20万人を超えていたとされる。その経済力は中国全土の四大貿易都市の一つに数えられるまでに成長する。
他方で、杭州の歴代長官らは西湖の治水に尽力した。 1089年には、有名な詩人・蘇東坡が杭州長官に赴任した折、西湖の湖底に堆積した泥などを除去する工事を進め、その泥を積み上げて南北に長い 堤防(今の蘇堤)を増設する。その堤防上には 6本の橋がかけられ、桃や柳、芙蓉の木々が植樹されるなど、美しい湖畔庭園が造営された。
南宋時代に入ると、華北を追われた宋朝廷により、杭州城内に王都が移され(1129年)、その繁栄は絶頂を極めることとなる。
この王都の移転にあわせて、大規模な城郭拡張工事が進められ、王宮や庭園の入る 内城(皇城)と官庁街、商人街を含んだ外城の二重構造となる。内外合わせて、城門は 13箇所設けられた。
金朝に華北を追われて遷都したため、朝廷に随行して 旧都・開封から多くの人々が臨安府へ移住し、杭州の人口は激増する。 1270年ごろには、居住人口は 124万超(所轄の 9県を含む)となっており、杭州府城下町(銭塘県と仁和県)だけ見ても 43万人超もあったという。
なお、臨安府と改称された 銭塘県城(杭州府)であるが、城内には引き続き、北宋時代の 9県を統括する府役所、県役所も併設されていた。
時は下って、清代初期、杭州城の西面内側に 旗営(通商:満城)が建設される。その要塞部分を取り囲む 城壁(城門 6箇所)の全長は 5 km、南は今の開元路から北は靠法院路、東は中山中路あたりから西は湖濱公園からなる一帯であったらしい。一見すると、その要塞は杭州城内に設けられた、もう一つの城郭といったスタイルであったという(下地図)。しかし、この 旗営(満城)も、中華民国が建国された 1912年に早々に撤去されてしまうこととなる。
なお、清代でも 1724年と 1800年に、西湖の湖底の泥掃除が大々的に行われた。この時代も杭州城下の人口は増加の一途をたどり、清代後期の 1883年当時の統計では、62万人以上の戸籍登録があったという。
しかし、1894年に勃発した日清戦争に敗北し、翌年に締結された下関条約により、清朝は杭州の開港を迫られる。拱宸橋一帯に日本租界が開設されることとなり、同時に、最恵国待遇を理由に欧米列強も杭州へ進出してくる。こうして、当地の近代化が急激に進んでいくこととなった。
中華民国が建国された 1912年、杭州府が廃止され、銭塘県と仁和県が合併されて杭県となる。 1927年、杭県が杭州市へ昇格され、今日に継承されることとなる。
清末期以降の近代化の過程で、杭州城や西湖のメンテナンスが滞るようになり、共産党中国による中国統一まで、その多くが荒廃していったという。
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