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海口市
訪問日:20--年-月-旬 『大陸西遊記』~
海南省 海口市 ~ 人口 290万人、一人当たり GDP 49,000 元
➠➠➠ 海口市内の 城跡リスト ➠➠➠
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瓊州府城(瓊州城、【二代目】瓊山県城、【三代目】舍城県城)
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【初代】瓊山県城(【二代目】舍城県城、【二代目】顔盧県城、崖州城、珠崖郡城)
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瞫都県城(【初代】珠崖郡城)
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玳瑁県城
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海口所城
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珠崖県城(【二代目】朱盧県城、珠官郡城、珠崖郡城)
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【初代】朱盧県城(顔盧県城、顔城県城、【初代】舍城県城)
【 海口市の 歴史 】
紀元前 213年、秦の始皇帝により華南地方も平定され、中央集権体制の導入が図られる。 このとき 桂林郡、象郡、南海郡の 3郡が新設されるも(下地図)、海南島自体は象郡の管轄外であった。島内では県役所の開設も一切無く、実質的には巨大な 無法空間(ちょうど日本の関東地方と同じ面積)のまま放置されたようである。
秦末の混乱期に建国された南越国の治世時代にあっても、引き続き、海南島は無政府状態のままであった。当時、島内では 離耳国(儋耳国)と通称される、独立王国が建国されていた、と考えられている(耳が異様に巨大な民族が居住していたことに由来)。下地図。
紀元前 111年、前漢朝 7代目皇帝・武帝により南越国も滅ぼされると、華南地方はすべて前漢朝の直轄領に組み込まれる。翌紀元前 110年、海南島を統括すべく、
珠崖郡(郡役所は、瞫都県城に開設 ー 今の 海口市瓊山区龍塘鎮にある珠崖嶺城跡)
と、
儋耳郡(郡役所は、儋耳県城に開設 ー 今の 海南省儋州市三都鎮旧州村)
の 2郡と、その配下に 16の県役所が新設される(交趾剌史部に帰属)。下地図。
珠崖郡下には、曋都県、
紫貝県(今の 海南省文昌市文城鎮)
、苟中県(今の
海南省澄邁県
美亭村)、玳瑁県(今の
海口市瓊山区
府城鎮の南 30 km)、顔盧県、山南県(今の 海南省陵水黎族自治県)、臨振県(今の
海南省三亜市
崖城鎮)など 11県が、儋耳郡下には 5県が配された。現在の海口市一帯は、曋都県と玳瑁県に分かれて統括されることとなる。
また当時の人口調査で、海南島内には 23,000戸あまりの住民登録が確認されたという。
前漢朝の直接支配は、すべて中央から派遣されてきた漢民族系の官吏によって運営されるも、最初の一年目から原住民らの強い反発に遭い、駐在していた官僚や兵士らが皆殺しされる事件が発生する。武帝は援軍を派遣し、いったん鎮圧するも、その後も多い時で 20年に 6度もの大規模反乱が記録されるなど、断続的に現住民らの武装蜂起が続くこととなった。 連年の天候不順もあって、海南島での直接統治体制の維持が困難となっていくと、紀元前 82年夏に
儋耳郡(郡都は儋耳県城)
の廃止が決定され、配下の 5県は、
珠崖郡(郡都は瞫都県城)
側へ移籍されるも、紀元前 46年春には、その珠崖郡も廃止されてしまう。上地図。
海南島上のすべての郡役所と県役所の閉鎖後、
朱盧県(今の 海南省海口市瓊山区旧州鎮)
が、大陸側の 徐聞県城(今の
広東省湛江市
徐聞県。上地図)へ転出され、海南島を間接統治するスタイルが模索されることとなった(合浦郡に帰属)。実際には、海南島は再び、中央朝廷の直轄支配が及ばない無法空間と化したわけである。
後漢王朝の再建途中だった 43年、伏波将軍の馬援が交趾を平定すると、海南島をも征服し、
前漢時代の珠崖郡城跡に珠崖県役所が復活設置され
、合浦郡の管轄下に組み込まれる(同時に、海南島の 対岸・雷州半島上に設置されていた朱盧県が廃止される)。 67年、
儋耳県
もまた復活設置され、珠崖県と儋耳県の二県体制で海南島を直轄することとされた(交州合浦郡に帰属)。 しかし、あくまでも出先機関的な存在で、主たる県役所機能は、引き続き、海峡を挟んだ大陸側の徐聞県城内に残留されたままだった(上地図)。
三国時代、呉支配下の広州に属する。 239年、呉の孫権により、珠崖県が朱盧県へ改称される。
242年には、今の広東省雷州半島に珠崖郡が再設置されると(上地図)、合浦郡下の徐聞県と 珠官県、朱盧県の 3県を統括することとされた(高州に帰属)。しかし、280年に呉が西晋に降伏すると、珠崖郡は廃止され、再び、合浦郡の管轄下に組み込まれる。海南島に対しては直接支配が放棄され、地元の部族リーダーらを介する間接支配体制へ変更される。
東西晋朝から南北朝時代にかけても、このままの行政区が踏襲される。海南島自体は、中原の戦乱から避難してきた流民や犯罪者、無頼者らがたどり着く、無法空間のまま放置され続ける。
時は下って南北朝時代末期、俚族リーダーの冼夫人が、巧みな外交工作により 広西省、海南島一帯の諸部族 1,000余りをまとめ上げ、時の 政権(南朝方の梁王朝と陳王朝、全国統一した隋王朝)に臣従する。ちょうと梁王朝に従属した 540年、その命により海南島を直轄すべく、
儋耳郡城跡地(今の 海南省儋州市三都鎮旧州村)に崖州の州役所を開設する
。こうして再び、海南島に中央朝廷の直接支配が及ぶこととなり、実に 600年にも及んだ無法空間の歴史に終止符が打たれるのだった。下地図。
隋代、現在の海口市一帯は、珠崖郡(崖州から改編)下の、顔盧県と
武徳県(607年新設。 622年に武徳県へ、627年に文昌県へ改称される。今の 海南省文昌市文城鎮)
の 2県に分かれて統括される。 このとき、珠崖郡の郡役所は引き続き、
義倫県城内(今の 海南省儋州市三都鎮旧州村)
に開設され、義倫県、感恩県(今の
海南省東方市
南部)、顔盧県(今の海口市東部)、毗善県(今の
海南省臨高県
)、吉安県(今の
海南省東方市
北部)の 5県を統括した。
唐代の 622年、顔盧県が顔城県へ改名される(珠崖郡から改編された崖州に帰属)。そして、 627年に
瓊山県役所(今の 海口市瓊山区旧州鎮)
が新設される。下地図。
632年、崖州が新設され、瓊山県が州都に選定される。以後、瓊山県城内には崖州の州役所、および舍城県の県役所が同時併設される
。以後、崖州は 瓊山県、舍城県、臨機県、万安県、富遼県の五県を統括した(下地図)。
639年、瓊山県が廃止されると、会口県、
顔羅県(瓊山県城兼崖州を継承。今の 海口市瓊山区旧州鎮)
、容瓊県の三県が、さらに 660年には、容瓊置から楽会県(今の
海南省瓊海市
烟塘鎮福石嶺管区泗村)が 分離・新設される(崖州の南側にあった、瓊州側に帰属。上地図)。667年に瓊州で大反乱が勃発し、黎族(現在も海南島の少数民族の 90%を占める)が海南島全土を占領してしまう。
それから 120年後の 789年、嶺南節度使の 李復(739~797年。
隴西成紀 ー 今の 甘粛省天水市秦安県
出身。江陵県長官、饒州、蘇州刺史、容州刺史、鄭滑節度使などを歴任し、各所で善政を敷いた行政官として有名)が瓊州を再平定すると、瓊州都督府が新設され、瓊州、崖州、振州、儋州、万安州の 5州を統括することとされる(上地図)。 この時代、瓊州下には引き続き、瓊山県、臨高県、会口県、楽会県、顔羅県などが配されるも、続く 五代十国時代を経る中で、最後の南漢朝の治世下では、瓊州は瓊山県と楽会県のみ統括するだけに縮小されていた。
971年、北宋が南漢朝を滅ぼすと、海南島の行政区に関し、大規模な調整が着手される(上地図)。
崖州の管轄下にあった海南島北部の舍城県、
澄邁県(今の 海南省澄邁県老城鎮)
、
文昌県(今の 海南省文昌市文城鎮)
が分離され、瓊州に戻される。 翌 972年、
瓊山県城が今の 海口市瓊山区旧州鎮から、海口市瓊山区府城鎮へ移転されると、同時に崖州も廃止され、これを吸収合併した瓊州の州役所と舍城県の県役所も 同時移転される
。以降、瓊山県、澄邁県、文昌県、舍城県(瓊州城に同居中)、臨高県、楽会県の 6県を統括することとされた。
また、全く同名の「崖州」が新設され、海南島の南部の行政区名として使用されることとなる。 これが
海南省三亜市西部に残る崖州古城
へと連なるわけである。
南宋時代、瓊州は 5県体制となる。
なお、この北宋時代、瓊山県の管轄下にあった海口浦という漁村があったことが記録されており、南宋末期から元代初期にかけて、海上交易の貿易港として大いに発展を遂げる。元代には海口港、明代には 海口都、海口所、海口所城、そして清代には瓊州口へと変更されていった。この 港町「海口」の地名が、現在の「海口市」の由来となっている
。
元代、瓊州が瓊州路へ改編されると同時に、海北海南道宣慰司(後に 乾寧軍民安撫司へ改編)が海南島の最高統括機関として新設される。
明朝が建国されたばかりの 1368年、広東省が平定されると、元朝時代の乾寧安撫司が
瓊州府(瓊山県城)
へ改編され、海南島の上級行政区であった 儋州、崖州、万州の 3州と、その配下の 13県を管轄することとなる(上地図)。
清代も、基本的に明代の統治制度が踏襲される。 清末、瓊州府下には 1州と 7県が残存されていた。すなわち、儋州、瓊山県、
澄邁県(1895年、現在の 南渡江沿いの海南省澄邁県金江鎮へ移転)
、
臨高県(今の 海南省臨高県臨城鎮)
、
定安県(今の 海南省定安県定城鎮)
、
文昌県(今の 海南省文昌市文城鎮)
、
会同県(今の 海南省瓊海市塔洋鎮)
、
楽会県(今の 海南省瓊海市博鰲鎮朝陽郷楽城村、万泉河の中州エリア)
である。下地図。
そして清代後期、アロー戦争(第二次アヘン戦争。1856~1860年)に敗れた清朝は 1858年、英仏両国と天津条約を締結し、
潮州港(汕頭港)
と共に、この
瓊州港(海口港)
の開港も強制される。以降、従来より海口地区の中核であった
瓊山県城(瓊州府城)
と、港湾最前線の
海口所城
との間が急速に都市開発されていくこととなった。
なお、この天津条約により、最も中国進出が進んだのは、フランスであった。この時、初めて
北京
に公館を、また新規開港された 瓊州、
潮州
、
台南
、
淡水
、
登州(今の 山東省煙台市蓬莱区)
、
江寧(今の 江蘇省南京市)
の 6都市に領事館を開設している。
中華民国時代初期の 1914年、瓊州府が廃止されると、海南島は広東省に直轄された。
共産党時代の 1988年、広東省から分離される形で海南省が新設されると、この省都に選定され今日に至る。
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