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寧夏回族自治区 地図
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固原市
訪問日:20--年-月-旬 『大陸西遊記』~
寧夏回族自治区 固原市 ~ 人口 156万人、 一人当たり GDP 14,000 元
➠➠➠ 固原市内の 城跡リスト ➠➠➠
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高平県城(平高県城、平凉郡城、原州城、固原城)
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彭陽県城(朝那県城)
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隆徳県城
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海城県城
【 固原市の 歴史 】
今から、27000~32000年前の旧石器时代にすでに人類の生息が確認されている(固原市彭陽県の石器時代遺跡)。新石器時代に入って農業社会が始じまり、このころより氏族単位の集落が形成されていたようである。
戦国時代においては、元々、秦の本国領土としてスタートしている。秦の恵文王の 治世下(紀元前 337~311年)、烏氏県(今の固原市中心部である原州区南部)が設置され、また後年、朝那県(今の 彭陽県古城鎮)も追加設置されている。
前漢時代の紀元前 114年、7代目皇帝・武帝により、北地郡が分割され安定郡が新設された。その安定郡役所は、高平県城内(今の 固原市中心部の原州区内)に開設される。その下に 21県をも管轄することになった。当時から、関中地方と西域とを結ぶ交通の要衝に位置し、軍事上でも非常に重要な拠点とされていた。
後漢時代は、前漢の制度をそのまま踏襲することになる。そして、三国を統一した西晋時代に、新たに都盧県が設置された。
東晋時代、高平県、朝那県、烏氏県、都盧県の 4県が確認されている。
南北朝時代には、北魏や 西魏、北周に帰属する。北魏支配下の 436年、高平鎮が設置され、 524年には高平鎮が原州へと改名され、その下に高平郡と長城郡が置かれ、さらにそれらの下に 高平県、里亭県、黄石県、白池県が管轄されることになる。その高平郡側の役所は高平県城内に併設された。北周時代、原州総管府が新設され、北魏時代と同じ 2郡、4県の管轄を踏襲するものとされた。北周統治下の 569年1月、この高平県城の城郭規模をさらに拡張する工事が実施される。旧城は内部城として、その外郭にさらに城壁と堀が築かれた。この時から、内城、外城の 2重構造の強固な城郭都市となる。
南北朝時代の戦乱を平定した隋朝は 607年、原州暨総管府を廃止し、平凉郡を設置する。 そして、その下に 平高県(高平県から改名された)、百泉県、默亭県、楼県の 4県が置かれる。
唐代の 618年、平凉郡が廃止され、原州が復活される。また 631年、原州中都督府が復活されるも、742年、再び平凉郡へ戻された。なお、このころから活発化するユーラシア大陸の東西を結ぶシルクロード上に位置したことから、経済上でも恵まれていた商業都市であったようである。なお、安史の乱で内戦が勃発した時代の 広徳年間(763~764年)には、吐蕃に占領されている。しかし、唐側はすぐに奪還に成功している。
宋代になると、この地に 鎮戎郡(今の原州区)、懐徳軍(今の 原州区黄鋒堡鎮)、徳順軍(今の 隆徳県)、西安州(今の 海原県西安郷)が新設された。対北方民族の最前線ということもあり、防衛拠点作りが活発化する。
華北地帯を金王朝に奪われた宋は、江南地方へと遷都し、南宋を建国する。この地を占領した金王朝は、軍を州へと昇格させる制度改革を実施し、鎮戎軍を鎮戎州へ、徳順軍を徳順州へ、懐徳軍を西安州へと改編する。
華北の金王朝と華南の南宋を滅ぼした元朝は、それぞれ 開成路、開成州、広安州へと変更させている。
明朝の時代、固原州と固原衛が新設された。北へ追いやったモンゴル勢力はその後も度々南下を繰り返しており、明による万里の長城が築かれたわけであるが、その長城防衛 9拠点の一つとして、固原は隴西三辺総督駐節の地となっている。このころ、軍人以外でも商人や農民らの人口も急増し、さらに長城沿いにシルクロード交易の安全も確保されたことから、この地の経済活動も活発化し、最盛期を迎えることになる。そして 1450年、固原城の内城壁を土造りからレンガ積みの城壁へと大改修が施された。また 1469年、内城がさらに増改築されている。さらに、防衛力を強化すべく、1502年、三辺総督の職にあった秦紘により、城外にさらに軍事要塞まで追加築城される。このころ、この壮大な軍事設備の様から、鉄壁な守りの 代名詞として、「固原」の名は天下に知られるようになる。 1575年には、三辺総督の石茂華により、固原城の外城壁もレンガ積みへと大改修が施される。これが固原城の最終形状となり、近代に至るまでその姿を残すことになる。
この当時の記録によると、内城壁は周囲 4.7 km、高さ 11 m、矢穴は 1046箇所、砲台は 28門あり、外城壁は周囲 6.9 km、高さ 12 m、矢穴 1573箇所、砲台 31門が設置されていたという。城門は東側に安辺門と保寧門、南側に鎮秦門と鎮夷門、西側に威遠門、北側に靖朔門がそれぞれ建造されていたという。
また、固原古城の城壁に使われたレンガには、“回”の字の形で作られており、中国史上でも非常にまれなケースとなっている。
清代でも北方の重要拠点とされ、固原州、隆徳県、海城県、化平川直隷庁が設置されている。
清代末まで防衛の要とされた城壁も、近代に入り大部分が撤去されてしまい、現在ではわずかに城壁片が残るのみである。南西部の西湖公園内に城壁跡が残る。
なお、この固原古城であるが、今日では南西部の西湖公園内にわずかに城壁、および、西関街沿いにかつての 北門「靖朔門」を残すのみで、ほぼすべてが撤去されてしまっており、かつて巨大な内城と外城を抱えた城郭都市の面影は、所々の路地名でのみ目にすることができるだけである。東関街、北関路、東関西巷、西関街、西城街、南関路、大南寺巷。
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