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阜陽市
訪問日:20--年-月-旬 『大陸西遊記』~
安徽省 阜陽市 ~ 人口 830万人、 一人当たり GDP 35,000 元
➠➠➠ 阜陽市内の 城跡リスト ➠➠➠
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汝陰県城(汝陰郡城、潁州城、順昌府城、潁州衛、潁州府城、附郭県城、阜陽県城)
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沈丘県城
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潁上県城
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寝県城(寝県邑城)
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慎県城
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胡子国 王都跡(阜陽市潁泉区寧老庄鎮海孜村古城子村)
【 阜陽市の 歴史 】
阜陽市は、古代中国文明が花開いた 中原地帯(黄河ー准河の中間エリア)に位置し、その文化開明も非常に早くから進んでいた。
周王朝が建国されると、これに従った諸侯の一角として、胡子国が立国される。
当初は、今の
河南省漯河市
舞陽県蓮花鎮胡城集村に王都が開設されるも、春秋戦国時代期に今の 阜陽市潁泉区寧老庄鎮海孜村古城子村一帯へ遷都され、最終的に紀元前 495年、楚国により滅ぼされることとなる。
また下地図にある通り、現在の阜陽市臨泉県には沈国が、現在の阜陽市潁上県慎城鎮には慎国など、複数の小国が割拠する状態であった(下地図)。続く春秋戦国時代を経て、都市人口が地方へ分散され、原陽県邑(今の 阜陽市太和県原壁鎮の原型)、新県邑(今の 阜陽市太和県倪邱鎮の原型)、寝県邑(今の 阜陽市臨泉県の原型)などの都市が、誕生していくこととなる。
秦王朝により中原が統一されると、全国に郡県制が導入され中央集権体制の確立が強行される。この時、今の阜陽市中心部に汝陰県が設置される(陳郡に帰属)。
続く前漢時代、汝陰県は女陰県へ改称されるも(下地図)、
後漢時代末期、魏王の 曹操(155~220年)により汝陰県へ戻される。豫州(州都は、今の
安徽省亳州市
)下の汝南郡に属した。
魏王を継承した曹丕が献帝に譲位を迫り、後漢王朝が滅亡すると、三国時代が始まる。
238年、沛国が廃止され、汝陰郡が新設されると、汝陰県城が郡都を兼務するも、間もなくして廃止され、汝陰県は再び、汝南郡(郡都は、新息県城 ー 今の
河南省信陽市
息県)に帰属された。
265年、司馬炎(236~290年)が魏王から譲位を受け、西晋王朝を建国すると、翌 266年、再び汝陰郡が復活設置し、再度、汝陰県城に郡都を兼務させる。そして司馬炎は、文武に勇名を馳せていた叔父の 司馬駿(232~286年。司馬懿の第 7子)を、長年の功績を称え、汝陰王に封じる。その病死後には、自身の第 14子であった 司馬謨(276~286年)に汝陰王を継承させるも、11歳で急死してしまうと、汝陰国自体が廃止される。
永嘉の乱で西晋王朝が滅び、華北が混乱すると北方民族の侵攻を受け、以後、汝陰郡は 前趙、後趙、前燕、前秦、後燕、東晋などの支配を受けた(五胡十六国時代)。下地図。
隋代初期の 583年、汝陰郡が潁州へ改編されるも、2代目皇帝として煬帝が即位すると、605年、汝陰郡が復活設置され、そのまま汝陰県城が郡都を兼務した。
唐代初期の 621年、汝陰郡が信州へ、623年には潁州へ、そして 742年に再び汝陰郡へ、さらに 758年に潁州へと、目まぐるしく改名が繰り返される。しかし、いずれも首府は、一貫して汝陰県城が担った。なお、この時代、622年に設置されていた亳州に総管府が開設されており、周囲の 亳州、宋州、沈州、譙州と共に、潁州も統轄されていた。
以後の五代十国時代にも、このままの行政区が継承される。
北宋時代の 973年、汝陰県城が一時、今の阜陽市南東部へ移転されるも、再び、元の場所に戻される(下地図)。 1116年には潁州が順昌府へ昇格されると、汝陰県城は府都をも兼務することとなった(京西北路に帰属)。
金王朝が 1141年、順昌府を占領すると、潁州へ改称し、そのまま汝陰県城が州都を担う(上地図)。
モンゴル族による元王朝治世下の 1265年、汝陰県が廃止され、潁州の直轄地に組み込まれる(河南行省汝寧府に帰属。汝寧府役所は、今の
河南省駐馬店市
汝南県に開設されていた)。
明代初期の 1368、潁川城内に潁州衛が開設される(1437年、潁川衛が河南都指揮使司へ改編される)。明朝が採用した衛所体制は、農民や町人ら全国民を軍事動員する制度で、地方部隊を監督する完全ピラミッド式であった。最上位に都督府、その下に衛所が置かれ、下部の千戸所を 5か所、統括した。
この時代、潁州下には 潁上県、太和県、
亳県(今の 安徽省亳州市)
の 3県が配されていた。
清代の 1724年、潁州が直隷州へ昇格される。
1735年、潁州が潁州府へ昇格される。同時に潁州の直轄地が分割され、附郭県と 阜陽県(乾隆皇帝が自ら命名した)が新設される。
中華民国初年の 1912年、潁州府が廃止される。1949年3月に阜陽市が廃止され、阜陽県へ改編される。同時に降格されていた北隣の
亳県(今の 安徽省亳州市)
をも内包して、1996年2月26日に阜陽市が成立するも、1998年2月に亳州市が 分離・新設されて、今日現在、二つの市が並立することとなっている。
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