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恩施トゥチャ族ミャオ族自治州
訪問日:20--年-月-旬 『大陸西遊記』~
湖北省 恩施トゥチャ族ミャオ族自治州 ~ 人口 410万人、 一人当たり GDP 15,000 元
➠➠➠ 恩施トゥチャ族ミャオ族自治州内の 城跡リスト ➠➠➠
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恩施県城(土歸流、施州衛、施南府城)
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宣恩県城
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来風県城
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咸豊県城
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利川県城
【 恩施トゥチャ族ミャオ族自治州の 歴史 】
春秋時代期には巴子国の版図下に、戦国時代期には楚国の領土下にあった。
紀元前 221年に秦により中原が統一されると、黔中郡が新設され、恩施自治州エリアはここに帰属された。
前漢朝の時代には、南郡と武陵郡に分かれて管轄される。下地図。
三国時代においては、最初は蜀に、後に呉の領土となり、建平郡(260年に宜都郡から 分離・新設 ― 南陵県、信陵県、巫県、秭歸県 を管轄)と 武陵郡に分かれて所属した。
西晋、東晋時代から南北朝時代の 宋、斉、梁、北周朝の治世下にかけては、建平郡、天門郡、武陵郡、信陵郡、秭歸郡、 業州軍屯郡、清江郡に統括される。
隋代には巴東郡下の巴東県と清江郡下の 清江県、開夷県、建始県に分かれて所属した。下地図。
唐代においては、今の恩施州一帯は歸州巴東県、施州下の清江県と建始県に分かれて管轄された。
五代十国時代、後蜀の版図下に置かれるも、北宋により後蜀が滅ぼされると、北宋帝国に組み込まれる。このとき、歸州巴東県、施州清江県、建始県、および 辰州、富州、高州、定州の一部として統括された。
元代には、歸州巴東県、施州建始県、そして南部の少数民族地区で導入された土司制度の下、散毛、唐崖、金峒、龍潭、忠建、毛峰、施南 などの土司の統括区にばらばらに管轄された。
元朝晩年の混乱期、明玉珍が蜀地方を支配した際にも、元代の行政区が継承される。下地図。
明代に入ると、夔州下の建始県、歸州下の巴東県、施州衛、そして南部地区には引き続き、土司制度が採用され、有容美宣慰司、施南、散毛、忠建の 3つの宣撫司と 9つの安撫司、そして 13の長官司と 5つの蛮夷長官司が設置された。
清代も明代の行政区が継承される。清朝中期の 1728年、施州衛が廃止され、恩施県が新設される。
1735年には土歸流が施南府へ改編され、その下に 恩施県、宣恩県、来風県、咸豊県、利川県を統括することとされる。下地図。
翌 1736年には夔州下の建始県が施州に編入され、一方で巴東県と鶴峰州が宜昌府の管轄下へ転出される。
清朝が滅び、1912年に中華民国が建国されると、1916年に荊南道が新設され(翌年に 施鶴道へ改名)、恩施県城内に道役所が併設される。その下に 恩施県、建始県、宣恩県、来風県、咸豊県、利川県の 6県が配された。1917年に鹤峰州が、 1923年に巴東県が施鶴道へ編入され、今日に続く 8県体制が成立することとなる。
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