BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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山東省 東営市 ~ 人口 215万人、 一人当たり GDP 19,000 元


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  広饒県城(【2代目】千乘県城、樂安県城)
  利津県城(永利鎮城)
  鉅定県城      三国時代、魏の 将軍・于禁の故郷
  【初代】漯沃県城(漂沃県城、千乘郡城)



【 東営市の 歴史 】

夏王朝から 商(殷)王朝末期にかけて、東営市一帯は 爽鳩氏、季則氏、逄伯陵氏、蒲姑氏らの諸部族の割拠するエリアであった。

東営市

西周時代初めの紀元前 1046年、斉国初代君主として 呂尚(姜子牙)が斉侯に封じられると、その統治下に組み込まれる。そのまま時は春秋戦国時代に突入するも、引き続き、斉国の版図下に置かれた。
奇代の戦術思想家である 孫武(孫子)は、この頃、 現在の東営市広饒県で誕生している(紀元前 535?年~)。

秦朝が中原を統一すると、斉郡に帰属される。

前漢朝時代、東営市一帯は千乘郡と斉郡に分かれて統括された。
劉邦により前漢朝が建国された翌紀元前 201年、広饒県(今の 東営市広饒県より北へ 10 km。古楽安城とも別称)が新設される(斉郡に帰属)。これが現在の東営市広饒県の起源である。
当時、現在の東営市一帯は、千乘郡下の 千乘県(今の 東営市広饒県司家村)、琅槐県、漯沃県(今の 東営市東営区永利鎮)、蓼城県、そして斉郡下の広饒県、鉅定県(今の 東営市広饒県大碼頭鎮)、利県(今の 浜州市博興県利城村)に分かれて統治された。下地図。

東営市

前漢朝 7代目皇帝・武帝(紀元前 156~前 87年)により、紀元前 122年、 菑川国の 靖王(劉建)の子であった劉国が広饒侯に封じられると、広饒県城(今の 東営市広饒県より北へ 10 km)がその侯国の王都に選定される。

紀元前 89年に武帝が東巡し海を見物した際に、同年 3月、鉅定県城(今の 東営市広饒県大碼頭鎮)に立ち寄ったとされる。
その鉅定県城であるが、現在の東営市広饒県大碼頭鎮と濰坊市寿光市清水泊との間には、かつて巨大な 湖(距淀湖、鉅定湖、巨淀湖、清水泊 などと通称された)が存在しており、その北西に立地していた。この湖は、今では完全に埋め立てされてしまっており、地名にその名残を感じるのみとなっている(大碼頭鎮、小碼頭村、碼頭医院、北木橋村、南木橋村、新立村 など)。
この湖を巡って、日中戦争時代に熾烈な戦闘が繰り広げられたという(清水泊戦役)。

前漢朝から権力禅譲を受けた王莽による新朝の治世下、 東営市エリアは 建信郡(千乘郡より改称。郡都も 建信県城【今の 山東省淄博市高青県】へ移転)に帰属され、南部地域は 千乘県(今の 東営市広饒県司家村)と琅槐県に、西部一帯は施武県と延亭県に統括された。

後漢朝が復活すると、再び、前漢朝の行政体制に戻される(建信郡→千乘郡)。
60年、明帝により、千乘郡が千乘国へ改編される。

東営市

95年には、千乘国が 樂安国(王都は、臨済県城【今の 山東省淄博市高青県】)へ改名され、東営市一帯もこの樂安国に組み込まれた。この時代、東営市エリアは、利県(今の 浜州市博興県利城村)、益県、博昌県の 3県(広饒県、鉅定県、琅槐県の 3県は廃止)により統括されており、西部一帯は 蓼城県(漯沃県も一時的に廃止)の管轄下にあった。上地図。

三国時代には、曹魏の領土下にあって、引き続き、青州樂安国の 博昌県、利県、蓼城県と、冀州樂陵国の 漯沃県(再び復活設置。今の 東営市東営区永利鎮)に分かれて所属した。下地図。

東営市

西晋朝の時代、広饒県が復活設置される(斉国に帰属)。
東営市域の西部は冀州樂陵国下の漯沃県と青州樂安国下の蓼城県に管轄された。

五胡十六国時代から南北朝時代にかけての戦乱期、東営市エリアは 後趙、前燕、後燕、前秦、北魏など、為政者の目まぐるしい変遷を見ることとなる。しかし、行政区はほとんど変更が加えられることはなく、青州下の斉郡と樂安郡、および冀州下の樂陵郡に属した。
この頃、湿沃県役所が、今の 東営市東営区永利鎮から浜州市浜城区北鎮一帯へ移転されている。

隋朝が南北朝時代を統一し、300年ぶりに中国大陸をまとめ上げると、全国的な行政区の改編が進められる。この一環で、583年、千乘県役所が 広饒県城(今の 東営市広饒県から北へ 10 km)へ移転され、広饒県が千乘県へ改称される(青州に所属)。
596年には、漯沃県(今の 浜州市浜城区北鎮一帯)が蒲台県へ改称される。棣州に属する。

煬帝が隋朝 2代目皇帝に即位した 607年、全国的に州制が廃止され、郡制が復活する。これにあわせて、青州は北海郡に、棣州は渤海郡に改称される。下地図。

東営市

唐代に入り、郡県制が州県制へ戻され、さらに州県制の上部組織として道制が導入されると、今の東営市域の南部は河南道 乘州(後に青州へ改編)下の 千乘県(今の 東営市広饒県から北へ 10 km)に、西部は河北道棣州下の渤海県と 蒲台県(今の 東営市東営区永利鎮)に帰属された。
五代十国時代期には、青州が平盧軍へ改編されるも、管轄下の県城はそのまま踏襲される。

北宋朝の時代、道制が廃止され、代わって 997年に路制が採用されるに及び、現在の東営市エリアの南部は京東東路下の 青州(平盧軍より再変更)千乘県に、現在の東営市エリアの北部は 河北路(後に河北東路)浜州渤海県に属した。

東営市

1129年、金軍により青州が占領されると、一帯は劉豫を国主とする傀儡政権の斉国の管轄下に組み込まれた(8年間)。上地図。そのまま北宋時代の行政区が踏襲される。
1138年に、漢人政権の斉国が無益であることを悟った金朝は即、同国を完全廃止する。これと時を同じくして、千乘県が樂安県へ改称される(山東東路益都府に所属)。下地図。
また 1193年1月、永利鎮が 利津県(現在の 東営市利津県)へ昇格されている(山東東路浜州に帰属)。下地図。

東営市

元朝が中国を統一すると、行省制が導入される。以降、東営市域の南部は 樂安県(中書省山東東西道宣慰司益都府に帰属)に、北部は 利津県(中書省山東東西道宣慰司浜州に帰属)の管轄下に置かれた。上地図。

明朝がモンゴル勢を駆逐して政権を奪取すると、全国的に行省が廃止され、代わって直隷区と承宣布政使司が新設され、その下部組織に府、州、県が配されることとなる。
このとき、東営市エリアの南部は 樂安県(山東承宣布政使司青州府に帰属)に、西部は 利津県(山東承宣布政使司済南府浜州に帰属)に属された。

東営市

清代に 実行省、府、県の三層行政体制が採用されると、東営市域の南部は 樂安県(山東省青州府に帰属)の管轄となる。
西部は 山東省 済南府(1734年に武定府)下の利津県と 沾化県(一部のみ)に帰属された。上地図。

中華民国が建国された翌 1913年に、全国的に府制が廃止され、実行省、道、県の三層体制へ改編される。 このとき、市域の南部は 樂安県(山東省胶東道に帰属)に属した。
しかし翌 1914年、樂安県と同名の県が他省に存在したため、広饒県へ改称される。

なお、現在の東営市垦利県は、古代より、その大部分が黄河流域部の湿地帯であったわけであるが、1943年、共産党による対日戦線の一環として新設された垦利県に、その起源を見る。


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