BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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中原統一後の秦の始皇帝と華南遠征



広東省 東莞市 ~ 人口 832万人、 一人当たり GDP 87,000 元


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  東莞県城(東莞郡城)
  虎門口鎮城跡(虎門林規徐紀念館)
  威遠砲台
  靖遠砲台
  鎮遠砲台
  蛇頭湾砲台
  南山頂砲台
  沙角砲台
  定洋砲台



【 東莞市の 歴史 】

東莞市一帯では 5000年前の新石器時代、すでに人類の生息が確認されているという。
中原で夏王朝が勃興した時代、この地は百越の地に属され、雑多な野蛮民族らの混成の地と認識されていた。
中原が春秋戦国時代で荒れた頃、百粤と呼称されるようになり、当地でも諸部族が割拠する原始戦国時代を迎えていた。

紀元前 221年、中原一帯を統一した秦の始皇帝は、紀元前 218年に嶺南山脈以南の広東省エリアへの侵攻を開始し、4年がかりで百粤諸族らを武力併合した後、中央集権統治体制の確立を企図し郡県制度を導入する。これに伴い、南海郡、桂林郡、象郡の 3郡が新設され、南海郡の下には 番禺県、掲陽県、博羅県、龍川県、中宿県の 5県が設置された(下地図)。
現在の東莞市域は、南海郡下の 番禺県(現在の広東省 広州市)に帰属される。

東莞市

秦朝末期、龍川県令であった趙佗が、病死した任囂の跡を継ぎ、南海郡尉(南海郡軍事長官)に就任すると、直後の秦朝滅亡の混乱に乗じて、桂林郡と象郡を軍事併合し、嶺南山脈の南側一帯を領土として、紀元前 203年、南越国を建国するに至る。
この時期、嶺南山脈以南の百越諸部族文化と中原民族との文化融合が進行し、この地に大きな文化的発展が促されることとなる。その事実は、墳墓の埋葬品などからも確認され得るという。
しかし、その南越国も 前漢朝 7代目皇帝・武帝による軍事遠征を受け、紀元前 111年に滅亡に追い込まれる。

後漢朝の 順帝(8代目皇帝、在位:125~144年)の統治時代、番禺県が分離され、増城県(現在の 広東省広州市増城区)が新設される。今の東莞市エリアはこの南海郡増城県の管轄下に入る(下写真左)。
三国時代、孫呉の治世下の 265年、南海郡城内に司城都慰が設置され、東莞市海岸地帯の塩田事業が本格的に 監督・推進される(下写真右)。

東莞市 東莞市

280年、孫呉が西晋に降伏し、三国分立時代が終結するも、西晋王朝による全国統一後の安寧期も束の間で、すぐに中原は五胡十六国が乱立する南北朝時代に突入する。

初代南朝として建国された東晋朝は 331年、それまで広大な地域を管轄してきた南海郡を分割し、東官郡を新設する。その範囲は、今日の 東莞市、深圳市、恵州市一帯にまで及び、その郡行政庁は 宝安県城(今の 広東省深圳市 南山区南頭城跡)に開設された。

時は下って、南朝の梁王国時代の 503年、東官郡がさらに分割され、現在の恵州市一帯に 梁化郡(郡役所は欣楽県城)が新設される。東官郡下には 6県のみが残された。

507年、東官郡は東莞郡へ改名される(引き続き、郡都は宝安県城)。当時の華南中心都市であった 広州(番禺)の東側に位置する、水草(イグサ・莞草)の生産が盛んな地であったことから、このように命名されたといわれる。下地図。

東莞市

唐朝時代の 757年、宝安県が東莞県へ改名され、東莞郡役所、および東莞県役所が涌の地(今の 東莞古城)に新築される(下地図)。 このとき、レンガ積みによる城壁が建造される。
旧宝安県城は鎮城へと降格された。

また中原や華北で内乱が続いた唐代から北宋代にかけて、多くの漢民族が広東省一帯へ移住し、東莞県下でも多くの村落が誕生することとなった(客家の誕生)。

北宋時代の 1087年~1089年、東莞県長官であった李岩により、海岸沿いに東江堤という堤防が築造される。
また、この頃、東莞県城内に最初の学問所が開設される。これが「東莞学宮」の前身となる。

東莞市

南宋王朝下の 1162年、東莞県の西部が分離され、香山県(現在の広東省 中山市)が新設される。

明代初期の 1384年、東莞県城 が大規模改修され、城門を石積みへと改修し、あわせて城門前に 甕城(仔城とも呼ばれる)が増築される。

この時代、塩田事業(下写真)と水運交通、東南アジア交易がますます盛んとなり、東莞県城は「広東の 4大都市」にまで数えられるほどに繁栄を極める。

明代中期の 1573年、東莞県の東部が分離され、 新安県(今の広東省深圳市 南山区南頭古城)が新設される。1394年に築城されていた 東莞守御千戸所(旧宝安県城)が新安県城へ昇格されることとなり、現在の 香港深圳市 一帯を含む、広大なエリアを統括することとされたのだった。

東莞市 東莞市

明代には倭寇の襲来が沿岸地域で度々頻発したため、広州城と珠江河口エリアの防衛を目的に、現在の東莞市虎門鎮に最初の 海防要塞(虎門塞)が建設される。下絵図。

東莞市

清代に入っても、広東省下の行政区は明代の制度がそのまま踏襲される。
この時代、東莞県城下の市街地が急拡大を遂げる。その市街地は城壁外にまで広がり、 城内に三坊一厠、城外に 12坊と巷 77条(城内 43条、城外 34条)を有する巨大都市へと変貌していく。主に、西門と北門の外側一帯、特に西の堀川の船着き場を中心に広がっていったらしい。

東莞市

また清代、東莞市域の他地区でも、集落地の成長が見られた。虎門、石龍、寮歩といった今日の諸鎮も、この頃に形成されている。下表は、明代~清代の東莞県下の人口統計表。

年代 東莞戸籍人口(人)
1391年  76,364
1472年  141,455
1572年  143,598
1582年  107,032
1632年  85,730
1660年代  41,198
1711年  41,400
1787年  465,570

また同時に、明代、清代を通じ、欧米列強やアジア諸地域との海外交易も活発となるにつれ、海岸防衛のための砲台設置も進められていった。

東莞市

そして清朝末期の1839年、 欽差大臣となり広東に赴任した林則徐は、直後より英国商人らからアヘンの強制没収に着手し、 すべてを廃棄処分してしまう。これが直接的な引き金となり、 翌 1840年、アヘン戦争が勃発する。
この時代には、東莞県下の珠江河岸にはすでに多くの砲台陣地が配備されていた。 南山頂砲台靖遠砲台沙角砲台大角砲台威遠砲台鎮遠砲台靖遠砲台、鞏固砲台、永安砲台、大虎砲台、新涌砲台、蕉門砲台 など。下一覧表。

砲台名 設置年、装備など
沙角砲台 1800年、珠江河口部の東岸、沙角山に建造。大砲 12門、砲兵 31名配備
大角砲台 1832年、珠江河口部の西岸、大角山岬に建造。大砲 17門、砲兵 51名配備
威遠砲台 1835年、珠江河口部の東岸、共同戦線基地・南山頂砲台の山裾に建造。大砲 40門配備
鎮遠砲台 1814年、珠江河口部の東岸、南山ー威遠砲台の北西の山裾に建造。大砲 40門、砲兵 61名
横檔砲台 1814年、珠江河口部の 孤島・横檔島の東面に建造。大砲 40門、砲兵 61名配備
永安砲台 1835年、珠江河口部の 孤島・上横檔島の西面に、関天培の提唱で建造。大砲 40門配備
鞏固砲台 1835年、蘆湾山の山裾に、関天培の提唱で建造。大砲 20門配備
大虎砲台 1817年、珠江河口部の 孤島・大虎島の山頂に建造。大砲 32門、砲兵 51名配備
蕉門砲台 1812年、広州市南沙区の蕉門島の河岸部に建造。大砲 14門、砲兵 17名配備
新涌砲台 1809年、珠江河口部の東岸、虎門新涌口に建造。大砲 12門、砲兵 21名配備

この強固な防衛網、特に東莞県下の虎門一帯は「金鎖銅関」や「南海エリアの万里の長城」などの異名を持つまでになっていたという。
しかし、実際にアヘン戦争が勃発し、シンガポール から派遣された英国艦隊と直接戦闘が開始されると、大砲の性能差から、英国艦隊に一発も命中させることがかなわないまま壊滅させられてしまう。


アヘン戦争当時の清、英軍の大砲火力 比較表
国名
有効射程 最大射程距離 発射速度  その他、性能
清軍大砲 約 1,000m 約 2,000m  6分毎
 1発
 命中精度は極端に低く、発射角度の調整能力も乏しかった。
 また、各大砲は非常に重く、移動用の滑車も粗末な木製で、
 機動性が乏しかった。
英軍大砲 約 1,500m 約 4,500m  2分毎
 3発
 命中精度が高かった。
 各大砲は軽く、移動用の滑車も 4輪タイプで、機動性が高かった。


東莞市

清朝が滅亡し、中華民国が成立すると、東莞県は広東省下の粤海道に帰属される。
日中戦争時代、中国共産党配下の抗日ゲリラ部隊であった、広東人民抗日遊撃隊 東江縦隊(通称・東江遊撃隊)の抗日主要拠点の一角を担った東莞市は、全国にその名を知られることとなった。


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