BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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山西省 大同市 ~ 人口 340万人、 一人当たり GDP 32,000 元


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  平城県城(東部都尉、新興郡城、雁門郡城、代国の南都、北魏の王都、太平県城、雲内県城、雲中県城、懐仁県城、雲州城)
  恒安鎮城(北恒州城)
  崞県城
  武州県城
  繁峙県城
  道人県城
  高柳県城(西部都尉、代郡城)
  班氏県城
  示氏県城
  平舒県城
  延陵県城
  霊丘県城(霊丘郡城)
  且如県城(中部都)
  平邑県城
  参合県城



【 大同市の 歴史 】

現在の大同市域では、約 10万年前の旧石器時代から古代原人の生息が確認されているという。
大同市陽高県古城鎮許家窑村南で発掘された原人の骨は、北京原人の末裔のものと考えられている。
また、市内各所では新石器時代の遺跡も多数発見されている。

商(殷)王朝を建国した成湯は同族をこの地の王に封じ、代国を建国させている。下地図。

春秋時代期、今の大同市エリアでは 北狄族(主に、林胡と楼煩の部族集団)が割拠する地域であった。下地図。

大同市

戦国時代初期まで代国が存在したが、後に 趙国(晋国より 分離・独立)に併合されることとなる。

紀元前 221年に秦の始皇帝が中原を統一すると、封国体制が廃止される。代わりに全国に中央集権体制の確立が図られ、郡県制が導入された。このとき、今の大同市一帯は雁門郡と代郡に分かれて管轄される。

当時、大同市エリアには、平城県、代県、善無県、延陵県、平舒県、武周塞の城塞、新城県、班氏県、馬邑県などの諸県が配されていた。

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秦の始皇帝は蒙恬を大将軍として 30万の大軍を派遣し、主にオルドス地方に割拠した匈奴征討を進める。あわせて、300万人近い庶民らが万里の長城の建設工事に駆り出され、ここでも蒙恬が工事の陣頭指揮を取らされることとなった。また、大同市中心部の西から左雲県にかけて流れる河川の峡谷部分に、武周塞の軍事要塞が築城されている。

前漢時代にも秦朝の郡県制が踏襲される。そのまま 雁門郡(并州刺史部に所属)と 代郡(幽州刺史部に所属)に分かれて管轄された。

当時、雁門郡下には 14県が配された。すなわち、善無県(郡都を兼務)、沃陽県、繁峙県、中陵県、陰館県、楼煩県、武州県、汪陶県、劇陽県、崞県、埒県、馬邑県、疆陰県、平城県(東部都尉の行政庁も併設された)である。
このうち、現在の大同市域に含まれたものは、繁峙県、武州県、崞県、平城県(今の大同市中心部から北西へ 14 km)の 4県であった。下地図。

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一方で、代郡下には 18県が配され、今の大同市域では以下の 10県が含まれていた。すなわち、道人県、高柳県(西部都尉の行政庁も併設された)、班氏県、示氏県、平舒県、延陵県、霊丘県、且如県(中部都尉の行政庁も併設された)、平邑県、参合県である。上地図。

しかし、後漢時代に入ると、鮮卑族や匈奴などの北方民族の勢力が強大化し、盧芳の乱をきっかけに、雁門郡の郡都はより南部の陰館城へ移転されるも(51年)、引き続き、14県を統括することとされた。なお、明帝の 治世時代(58~75年)、平城県城(今の大同市中心部から北西へ 14 km)内で通光寺が建立されているが、これが大同市エリアで最古の仏教寺と言われる(大同市南郊区石小村)。

代郡においては、高柳県城に郡役所が併設され、11県城を統括した。今の大同市一帯は 高柳県、道人県、班氏県、示氏県、北平邑県、平舒県の 6県が存在していた。

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後漢末期には中原が大いに乱れ、それに伴い北方の鮮卑族や匈奴らがますます南下するようになる。
雁門郡と代郡の漢族らは徐々に、より南方への移住が強制される。

ついに 213年、代郡が烏桓族に占領されるに至る。その直後、北方統治が困難となった并州が廃止され、その行政区は冀州へ編入される。 すぐに、曹操は三男の曹彰を総大将とし、田豫(171~252年)を副将につけて代郡の奪還を図る。このとき、田豫は大いに軍功を挙げ、2年がかりで代郡を平定するも、田豫の進言もあり、雁門郡と代郡の住民らはすべて平城県城(後漢末期に新設された新興郡の郡都。今の代県の東 2.5 kmにあった)へ移住させられる(冀州が統括した)。

後漢朝から権力禅譲された曹丕により魏国が建国された 220年、并州が復活設置される。平城県城は并州雁門郡の郡都と州都を兼ねることとなった。なお、平城県城は冀州新興郡の郡都でもあり、一時的に機能が重複された。

しかし、間もなく烏桓族と鮮卑族らの活動が再び活発化する。これに対し、曹丕は再び田豫を派遣し、10年にもわたり北方戦線を指揮させることとなった。以降、この地方は、漢族のほとんどいない無人地帯と化したという。

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西晋時代においても、今の大同市北部は鮮卑族の勢力下に置かれ、南部のみ雁門郡に帰属されていた。
この当時、雁門郡の郡役所はすでに北側の広武県城へ再移転されており、広武県、崞県、汪陶県、平城県、俊人県、繁峙県、原平県、馬邑県のみを統括するに過ぎなかった(平城県城は新興郡都のまま)。上地図。


西晋時代末期の 310年、并州牧の劉琨が鮮卑族の拓跋猗盧らの尽力により遊牧民族らの反乱を平定する。この功績は西晋朝廷に上奏され、3代目皇帝・孝懐帝により拓跋猗盧は代公に封じられることとなる。

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代国王に封じられた拓跋猗盧は、313年、盛樂城(今の 内モンゴル自治区和林格爾県の北部にある 和林格爾土城子遺跡)を北都に、秦漢時代より継承されてきた旧平城県城を南都に定める。これに伴い、後漢時代末期から廃城となっていた 平城県城は大幅に修復されることとなった。上地図。

その代国も 8代続いた後、376年に前秦に滅ぼされる。しかし、その末裔の拓跋珪により、386年に北魏が建国されるに至る。初代皇帝に即位した拓跋珪は、398年、王都を盛樂城から 平城県城(旧代国の南都跡)へ遷都する。さらに南下政策を進め、司州と代尹を併合して領土を拡大していった。最終的に 494年、北魏の孝文帝により王都が洛陽へ遷都される。下地図。

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この同時期、北の突厥、柔然、契丹などの北方勢力が次々に台頭してくる。
534年に北魏から分裂した東魏朝の版図下に組み込まれたものの、直後の 550年、北斉朝により王権が簒奪され東魏はあえなく滅亡する。北斉の治世下、大同市一帯は北恒州と北朔州の管轄下に置かれた。

北斉を建国した 高洋(文宣帝)は、その後も華北地帯の支配権をめぐり西の北周と戦闘を繰り返す一方で、北方の突厥などを撃破するなど、勢力拡大に努める。552年、華北制圧を優先すべく、長城の建設が着手される(180万人を動員)。3年後の555年、幽州の夏口から西は恒州までをつなぐ東西 450 kmの長城が完成し、翌 556年には、西河から東の黄海へとつながる 1,000 kmの長城が完成された。
同年、北恒州は 恒安鎮(今の 大同市中心部)へ降格される。当時、東州城とも別称された(恒州太平県【かつての 平城県城】下に帰属)。翌年には鎮が廃止され、再び北恒州に戻される。

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577年、ついに北斉が滅び、北周が華北地方の支配者となる。
同年、北恒州は再び、恒安鎮へ降格される。朔州は北朔州総管府へ改編される。また、太平県は雲中県へ変更される(現在の大同市の 別称「雲中」はここに由来)。霊丘県は蔚州に帰属し、霊丘郡の郡都とされた。

581年、北周朝より権力禅譲を受け隋朝を建国した楊堅は、全国の行政区から州制を廃止し郡制に統一すると、再び馬邑郡と雁門郡に分かれて統括されることとなる。

馬邑郡は 善陽県(郡都を兼務)、神武県、雲内県、開陽県の 4県と管轄し、雁門郡は 雁門県(郡都を兼務)、繁峙県、崞県、五台県、霊丘県の 5県を有した。
恒安鎮(今の 大同市中心部)は 馬邑郡雲内県下に帰属された。下地図。

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585年には代州総管府が新設される。隋朝は北の突厥の南下に対抗すべく、 607年に人夫 100万人以上を動員して万里の長城を修復させる。その規模は、西は榆林から、東は紫河へと至る長大なものであった。

615年8月、2代目皇帝・煬帝(楊広)が北方の国境地帯を巡遊中に、突厥軍が突如、10万兵の兵で南下し、楊広を雁門郡城に追い詰め、城を完全包囲する。下地図。
隋朝廷は各地の軍民らに応援を要請し、楊広は包囲網を突破することに成功する。
翌年にも突厥は国境を侵すも、 山西・河東慰撫大使の李淵と、馬邑太守の王仁恭の活躍により撃退されている。

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618年、李渊により唐王朝が建国されると、隋代の統治体制がそのまま踏襲される。
621年には旧恒安鎮に再び北恒州が設置された(624年に廃止される)。 623年、雁門郡下の霊丘県に蔚州が開設される。

627年、全国が 13道に区分けされ、雲州(州役所は雲中県城に開設)、蔚州、朔州などは河東道に帰属された。
このとき、蔚州は 興唐県(州都を兼務)、飛狐県、霊丘県の 3県を、朔州は 善無県(州都を兼務)と馬邑県の 2県を統括した。
唐代末期には、渾源州(渾源川から命名)と 応州(南の雁門山と北の龍首山との音の韻が踏まれて命名)が追加で新設されている。

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640年、旧雲内県城に定襄県が設置され、雲州の州役所を兼ねることとなる。663年には、雲中都護府も併設された。

682年、東突厥の初代皇帝である阿史那骨咄禄が弟の 阿史那默啜(後の 2代目皇帝)を派遣し、唐領へ侵攻する。このとき、州城や県城は徹底的に 破壊・略奪され、住民らは根こそぎ朔州へ連れ去られた。

730年に県城が復活設置され、定襄県が雲中県へ改称される。北恒州が廃止され、東州城へ改称される。また、雲州も復活された。

唐末の 869年、雲州城(雲中県城)に 大同軍節度使(882年に雁門節度使へ改称)が開設される。
このころ、中原では各節度使を中心とする群雄割拠の時代を迎えており、大同防御使もまた雲州刺史から実質的に権限を収奪しており、雲州、蔚州、朔州の 3州を支配する立場となっていた。

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唐末、雲州一帯は突厥沙陀部と吐谷渾赫連鐸部との争奪戦の主戦場となり、当地の経済は壊滅的打撃を受けることとなった。
この頃に、突厥沙陀部を率いた李国昌と李克用の父子が、この雲州を本拠地として、時に唐朝廷に対する反乱を企て、また時に、黄巣軍を壊滅させて唐朝を救出するなど活躍していくこととなる。上地図。

最終的には、雁門節度使かつ河東節度使を兼務し、唐帝国の北部一帯を勢力圏に収めるも、907年に朱全忠により唐朝自体が滅ぼされ、後梁が建国されると、李克用は、北方の契丹と同盟を結び(雲州東城で会見した)、後梁に対抗することとなる。後に、李克用の子の李存勖が後梁を滅ぼし、庄宗に即位して、後唐を建国する。
同時期、この契丹との 会見・同盟締結を記念して、雲中県城は懐仁県へ改称される。引き続き、雲州の州都を兼ねた。

時代は五代十国時代に突入し、華北一帯は後唐の領土下に組み込まれた。
後唐の庄宗の治世下の 924年、蔚州下の興唐県が分割され、広陵県(今の 大同市広霊県)が新設される。
翌 925年には、雲州は大同軍節度使へ改編された。

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936年、後唐朝廷より左遷されていた天平節度使の石敬瑭が反乱を企て、契丹国の長であった耶律徳光を父と仰ぎ、契丹の兵を借りて後唐を滅ぼすに至る。直後に、後晋国が建国される。契丹へは支援の見返りとして、燕雲十六州が譲渡され、かつ莫大な財貨が毎年、献上されることとなった。上地図。

しかし、雲中判官司の呉峦が契丹への帰順を拒否し、雲州城内で半年に及ぶ籠城戦を決行するも、後晋朝からの援軍はなく、最終的に雲州城は陥落してしまう。これ以降、大同市一帯は 契丹、女真、モンゴル族らの支配を 433年間も受け続けることとなる。それはすなわち、漢族らの支配圏が南へ押されていく時代を意味した。なお、986年に雲州観察使の楊業が雲州城を攻め落とし、3か月間だけ北宋朝に組み込まれた時期もあったが、すぐに遼軍に奪還されている。

937年、契丹が遼へ国号を変える。当初は大同軍節度使がそのまま継承されたが、1044年、雲州が西京へ改称され、西京道大同府と呼称されるようになる。
1048年には雲中県から大同県が 分離・新設される。こうして大同県城が遼朝の副王都に定められた。下地図。

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遼時代、大同府(府役所は大同県城に開設)下には、2州7県が配された。すなわち、弘州、徳州と 大同県、雲中県、天成県、長青県、奉義県、懐仁県、懐安県の 7県である。

また、蔚州下には 霊仙県(州役所を併設)、定安県、飛狐県、霊丘県、広陵県の 5県が、応州下には 金城県(郡都を兼務)、渾源県、河陽県の 3県が、朔州下には 善陽県(郡都を兼務)、武州県、寧遠県、馬邑県、神武県の 5県が置かれた。

宋代の 1123年、雲中府城内に雲中府路が開設される。その管轄下には、雲中府、及び 武州、応州、朔州、蔚州、奉聖州、歸化州、儒州、嬀州の 8州(これらと雲州をあわせて、山後九州と通称された)が置かれる。

北から遼王朝を追い詰めつつあった女真族の金王朝は、ついに 1125年、金朝皇室出身の 粘没喝(中国名:宗翰)の指揮により大同府の占領に成功する。このとき、当地に避難していた遼最後の 皇帝(耶律延禧)は捕縛され、また、 大同府城は徹底的な破壊と殺戮が繰り返され、半数以上の家屋と人命が失われたとされる。下地図。

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占領後、大同は西京へ、西京道は西京路へ変更されるも、府役所と県役所はそのまま大同県城内に設置された。
金朝はすぐさま大同県城の改修・復興工事に着手している。

当時、大同府下には 大同県、雲中県、宣寧県、懐安県、天成県、白登県、懐仁県の 7県が配された。奉義県は奉義鎮へ降格され、大同県下に組み込まれた。

1137年には、西京城内に太祖廟の建立まで開始される。
1165年、西京城内に宮殿や庭園が建設され、西京城は大いに繁栄を謳歌することとなった。
遼朝、金王朝時代に副王都となり、北方民族らの交易拠点として重要経済都市へ成長していく。

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元代初期、大同は引き続き、西京と呼称された。1212年に警巡院が設置される。また、1265年に雲中県が廃止され、大同県へ編入された。

1288年に西京道大同府が大同路へ改編され、1領事 8州を統括することとなる。すなわち、領事は録事司で、大同県(録事司役所を併設)、白登県、宣寧県、平地県、懐仁県の 5県を統括し、 8州は 弘州、渾源州、応州、朔州、武州、豊州、東勝州、雲内州を指した。
上都路は今の大同市と河北省の一部を管轄した。
順寧府役所は蔚州城内に開設され、霊仙県、飛狐県、定安県、霊丘県、広霊県を統括した。

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元末期の 1369年、左副将軍の常遇春が元軍の大同城を攻略する。上地図。
明代の 1374年には、大同路が大同府へ改称され、山西行中書省(1376年に承宣布政使司へ改名)に帰属された。
大同府の府役所はそのまま大同県城内に開設され、渾源州、応州、朔州、蔚州の 4州と、大同県(宣寧県を吸収合併)、懐仁県、馬邑県、山陰県、広霊県、霊丘県、広昌県の 7県を統括した。

明朝は北のモンゴルの脅威に備え、衛所制を導入する。1371年に 大同都衛沼白関城(1375年に山西行都指揮使司へ変更)が設置された。
衛所は、大同前衛、後衛、左衛、陽和、天成、威遠、平魯、雲川、玉林、鎮魯、高山、宣徳、東勝の 14ヵ所設置されている。
その他、長城沿いに 823の要塞と 307の狼煙台が設けられている。
この中で、大同前衛が最大規模であり、長城防衛の拠点となる。下地図。

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1645年5月、清は恭順候の呉惟華を派遣し大同城を攻撃させる。大同総兵官であった姜襄の協力を得て、城内に籠城する農民反乱軍に勧告し、 そのリーダーであった張天琳を誅殺させ、清軍に投降させることに成功する。

清朝は大同府の府役所をそのまま大同県城内に開設し、その下に 4州7県を統括させた。引き続き、山西布政司(後に山西省へ改編)の帰属とされる。

しかし、1648年末、清皇室の弱体ぶりを聞き及んだ姜襄は反清に転じ、南明朝に呼応して大同県城で挙兵する。
翌年、多尔衮が自ら遠征し、9か月もの間、大同県城を包囲し、陥落させる。この直後、清軍は大挙して大同城へなだれ込み、徹底的な破壊と殺戮が繰り広げられた。こうして大同城は完全に廃城となり、大同府役所は陽和衛の要塞へ移転され、陽和衛は陽和府へ改称されることとなる。

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また、大同県役所は懐仁県の西にあった安堡の要塞へ移転された。上地図。
1652年になって、再び府役所と県役所が旧大同城へ戻されることとなり、少しずつ人口も回復されていった。
1656年には山西総督がこの大同城内に開設されるまでに復興する。下絵図。

1726年、朔平府が右玉林衛に開設され、同時に明代の衛所が廃止される。また天鎮衛は天鎮県へ、陽高衛は陽高県へ、左雲川衛は左雲県へ、右玉林衛は右玉県へ、平虏衛は平魯県へ改編された。

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大同府の府役所はそのまま大同県城内に開設され、渾源州と応州の 2州と、大同県、懐仁県、山陰県、陽高県、天鎮県、広霊県、霊丘県の 7県と 豊鎮庁を統括する。

一方、朔平府の府役所は右玉県城内に開設され、その下には 右玉県、左雲県、平魯県、朔州県、馬邑県の 5県が配された。

中華民国が建国されたばかりの 1912年、大同府が廃止され、大同県へ降格される(北路観察使に帰属)。翌 1913年5月に雁門道が新設され、その道役所が大同城内に開設される。その下には 26県が配された。
1927年に道制が廃止されると、大同県は他の諸県と同列とされ、山西省の直轄となる。

日中戦争時代、1937年9月13日正午に日本の関東軍が大同城を占領し、同年 10月15日に晋北自治政府なる傀儡政権を樹立させている。
戦争末期には、同じく傀儡政権のモンゴル自治邦政府の管轄下に組み込まれた。


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