BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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黒竜江省 大慶市 ~ 人口 280万人、 一人当たり GDP 87,000 元


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  望海屯古城
  城基地(今の 大慶市肇源県中心部。1906年、肇州庁新設)
  老城基(老街基。今の 大慶市肇州県中心部)
  勒勒営子古城(珠克都噶珊)、出河店の古戦場 と 遼軍本陣跡
  出河店の戦い時、遼軍部隊の 布陣跡(老楽営子古城、吐什吐古城、莽海古城)
  古城村古城(混同江行宮跡。韶陽川行在所跡。今の肇源県古城村にある、龍虎台旅游区)
  他什海古城(春蒐城。皇后店)、西南得根古城(西南底根古城)、仁和堡古城、青龍山古城
  衍福寺 と 双塔(今の 肇源県民意郷大廟村)



【 大慶市の 歴史 】

白金宝遺跡(今の 大慶市肇源県茂興鎮民意郷白金宝屯)などの発掘調査により、 4000~3000年前の青銅器時代には、すでに当地で古代人類の生息が確認されており、粛慎族の一部であったと考えられている。
2200~1800年前には穢貊族らが跋扈し、3世紀には扶余国の、5世紀には 勿吉国(莫吉国)の版図下に組み込まれていた(いずれも先の「肅慎族」の呼称が変化しただけで、実態は同じ民族を指していた)。

563年、靺鞨族(勿吉族)が林朝を建国すると、徴税管理の統治上、王朝は 七部族単位(粟末部、伯咄部、安車骨部、拂涅部、号室部、白山部、黒水部)に分割されることとなった(下地図)。この時、現在の大慶市一帯は、最大行政区の「黒水部」の勢力下に属した。この名称は、嫩江から松花江を通過し、黒竜江(アムール川)を形成する、東北地方最大の河川水系を指す「大黒水」に由来する。下地図。

大慶市

その後、高句麗遺民と靺鞨族黒水部が手を組み、渤海国(698~926年)を建国して東北地方の東半分を支配した時代、ちょうど松花江を挟んで 粟末靺鞨族、契丹族、妹弱族、突厥族、室韦族らが割拠し、国境紛争地帯となっていた。唐朝の史書によると、800年ごろ、一時的に松花江北岸エリアも渤海国の勢力圏に組み込まれたという。

しかし、西域より契丹族の勢力が台頭してくると、903年、耶律 阿保機(872~926年)により、渤海国の領土が大きく削り取られることとなる。そのまま契丹族は渤海国を滅ぼし、東北地方全域を併合すると、契丹王国を建国する(947年に遼王朝へ改名)。

その遼王朝時代初期、北府宰相となっていた 蕭思温(?~970年)が、今の肇源県民意郷一帯を私領として支配すると(上京道に帰属)、春の滞在用の 城塞集落(今の他什海古城)を建造する。ここで誕生した蕭思温の 娘、孫娘の二人が皇帝の皇后として嫁いだことから、この城塞は「皇后店」と通称されることとなる

大慶市

それから 150年が過ぎた 1114年11月末、遼王朝に反旗を翻した女真族の 部族長・完顔アグダ(1068~1123年)が、出河店の地(別名:作珠赫店。現在の 大慶市江肇源県茂興鎮に位置する、茂興湖の湖畔の台地上)で、遼軍を大破すると、翌 1115年1月、金王朝を建国する。そのまま金軍は遼軍に連戦連勝を続け、1125年に滅亡まで追い込むことに成功するのだった

後日、初代皇帝として即位したアグダは、この奇跡の戦勝を紀念し、 その古戦場への出撃のため、暴風雨と酷寒の中、決死隊とともに松花江を渡河した地点に、「肇基王績の紀念碑」を建立する。 その後、2代目皇帝の知世下の 1130年、この石碑の地に 始興県城(今の 黒竜江省綏化市肇東市四駅鎮にある八里城跡)が築城されることとなり、そのまま肇州役所が併設されると(会寧府に帰属)、肇州城と呼称されるようになったわけである。上地図。

1234年、その金王朝をモンゴル帝国が滅ぼすと、当初はモンゴル軍の侵攻により荒廃した東北地方であったが、徐々に社会が再生され住民人口も増えてくると、肇州が復活設置される。

明代には、奴児干都司下の朶顔衛が統括する。なお、この 金代、元代に肇州城を担った八里城跡は、単に「肇州駅」という駅伝ネットワーク拠点が開設されるだけとなっていた

大慶市

さらに時は下って、清代初期の 1648年、中国北部に残留したモンゴル系遊牧民族らを統制するため、盟旗制が採用され、哲里木盟(内モンゴル六盟の一つ。その範囲は、東は現在の大慶市、北は チチハル市、西は内モンゴル自治区興安盟の範囲に広がる、広大なエリアであった)の下、杜爾伯特旗が新設される。上地図。
現在の大慶市域はちょうど、この杜爾伯特旗下の遊牧民らが小規模な集落を点在させながら、放牧生活を行ったテリトリーに相当していた。

時は下って清代末期、南下政策を強行するロシア帝国が、東北地方を縦断する形で東清鉄道の建設を進める中、1897~98年に、現在の大慶市一帯でも工事が着手される(1903年に全線開通)。下地図。
1901年、薩爾図駅が開設されることとなり(現在の大慶市中心部の北東郊外。「薩爾図」とはモンゴル語で「月が天へ上り出す地方」という意味)、この駅周辺と線路沿いの土地は「東清鉄道附属地」として、ロシア人行政官と駐屯兵団が配置され、植民地化が進められていくこととなった。

大慶市

全線開通直後の 1903年、新駅舎が建設されることとなり、 200 mほど離れた場所に新設されると「安達駅」へ改称される(上地図)。この駅舎は、現在も完全な姿で保存されている。

翌 1904年、ますます領土侵犯の危機感を募らせた清朝は、当時、広大な放牧地として放置されたままだった現在の大慶市域へ、多くの漢民族の移民を投入し、大規模に土地開発を進めていくと、各地に次々と屯田集落地が誕生していく。こうした過程で、最大集落化した「安達人民鎮(現在の 黒竜江省綏化市 安達市)」を統括すべく、 1906年2月、安達庁が開設される(下地図)。

大慶市

中華民国時代がスタートした 1913年、安達庁が安達県へ改編される。

日本統治下の満州国時代、薩爾図は興仁鎮へ改名されるも、中華民国の治世下の 1946年、薩爾図へ戻される。翌 1947年には、薩爾図エリアに点在していた複数の放牧地の統廃合が進められ、最終的に 1955年、それらは「紅色草原牧場」として一つにまとめ上げられる(当時も、まだ放牧生活を続けるモンゴル系民族がたくさん存続していた)。

同じ 1955年、大慶市大同区大同鎮、肇州県肇州鎮エリア、および今の 黒竜江省綏化市 安達市一帯で、石油試掘がスタートされ、1959年9月に成功すると、中国東北地方初の油田地帯となる。ちょうど共産党中国の建国 10周年直前のタイミングだったことから、「大慶油田」と命名されることとなった。 翌 1960年から本格的な採掘が開始されると、ますます人員投入とインフラ整備が進められたため、住民人口の増加にあわせて、安達市が新設される。
最終的に 1979年12月、大慶市へ改称されて、今日に至るわけである。

大慶市

当時、生産量で世界十位を誇った 大慶油田(総面積は、6,000 ㎞2 以上)の影響により、現在の大慶市から ハルビン市 に至る河川沿岸は、中国最大の石油コンビナート地帯へ大変貌し、東北地方屈指の工業地帯を形成している。しかし、2000年以降、石油生産量は激減し、現在、中国東北部の石油コンビナード地帯は、ロシア産の石油輸入に頼る産業構造となっている。


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