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安徽省 池州市 ~ 人口 136万人、 一人当たり GDP 61,000 元
➠➠➠ 池州市内の 城跡リスト ➠➠➠
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【二代目】池州城(【二代目】秋浦県城、康化軍城、池陽郡城、池州府城、池県城)
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石城県城(【初代】秋浦県城、秋浦郡城、【初代】池州城)
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青陽県城
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陵陽県城(石埭県城)
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東流県城
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建徳県城
【 池州市の 歴史 】
夏王朝、商王朝の時代、現在の池州市一帯は、不毛な湿地帯が広がるだけのエリアであった。
周王朝の時代、全国が九つの州に分割されると、揚州に属した。
秦国が中原を統一し、全国に郡県制を導入すると、現在の池州市の大部分は鄣郡に、 また 南西端(今の東至県一帯)のみ、九江郡下の 鄱陽県(今の
江西省上饒市
鄱陽県)に統括されることとなった(揚州に帰属)。下地図。
前漢時代も、このままの行政区が踏襲される。7代目皇帝・武帝の治世下の紀元前 109年、鄣郡が丹陽郡へ改編される。引き続き、丹陽郡下の 陵陽県(今の 安徽省池州市青陽県陵陽鎮。紀元前 109年に開設)と、豫章郡下の鄱陽県に分かれて統括された(下地図)。
また紀元前 108年、現在の池州市貴池区灌口郷石城に、石城県が新設される。
後漢時代から三国時代にかけて、孫呉の領土下に組み込まれた(引き続き、揚州下の丹陽郡)。
西晋時代の 291年、豫章郡は江州へ移籍される。丹陽郡は引き続き、揚州に属した。東晋時代、丹陽郡の南半分が分離され、宣城郡が新設されると、以降、宣城郡と豫章郡に統括された。下地図。
南朝の劉宋王朝時代、宣城郡はそのまま揚州に属するも、斉王朝時代に南豫州が新設されると、宣城郡はこれに属した。しかし、梁王朝時代には再び、揚州に移籍されるも、陳王朝時代には南豫州下に戻されるなど、上位行政区の変動が続いた。
隋代初期の 583年、郡制が廃止されると、宣城郡は宣州へ改編されるも、2代目皇帝・煬帝の治世がスタートした直後の 607年、宣州は宣城郡へ戻される。なお、599年、石城県(今の 池州市貴池区灌口郷石城)が、【初代】秋浦県へ改称されている。
唐代初期の 621年、池州(州都は【初代】秋浦県城が兼務)が新設されるも、627年に廃止されると、その行政区は再び、宣州に併合される。742年、全国で州制が郡制へ改編されると、宣州は宣城郡へ戻されると同時に、この南半分に 秋浦郡(郡都は【初代】秋浦県城)が 分離・新設される。
765年、秋浦郡が池州へ改編されると(宣州観察使に帰属)、池州役所、および秋浦県役所が、旧・石城県城(今の 池州市貴池区灌口郷石城)から 魚貴口(今の 池州市中心部)へ移転される(【二代目】秋浦県城)。 810年代の一時期、池州は池陽郡へ改編されるも、すぐに池州へ戻される。
五代十国時代、池州は当初は揚呉に、後に南唐朝の版図下に組み込まれた。この南唐朝時代の 938年、池州は康化軍へ改編される。
北宋時代初期の 997年、池陽郡が池州へ改編されると、6県を統括した(江南東路に帰属。南宋時代の 1131年、江南路へ移籍)。上地図。
元代の 1277年、池州が池州路へ昇格されると、江淮行中書省に属した(後に江浙行中書省に帰属)。
明代も、現在の池州市エリアの大部分は池州府に帰属するも、周辺の一部は九華府や華陽府に統括された(いずれも、直隷
南京
に直属)。
清代に入っても、明代の行政区が踏襲される。池州府は江南布政使司に統括された(後に安徽布政使司が監督)。
中華民国が成立すると、池州府が廃止され、池県へ降格される。旧池州府の行政区はすべて安徽省蕪湖道に帰属されるも、1928年に安徽省蕪湖道が廃止されると、各県はすべて安徽省に直轄された。
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