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澄邁県
訪問日:20--年-月-旬 『大陸西遊記』~
海南省 澄邁県 ~ 人口 60万人、一人当たり GDP 40,000 元
➠➠➠ 澄邁県内の 城跡リスト ➠➠➠
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苟中県城(【初代】澄邁県城)
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【ニ代目】澄邁県城
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永慶寺(海南島北部最大の仏教寺院)
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【三代目】澄邁県城(金江鎮)
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会口県城
【 澄邁県の 歴史 】
紀元前 111年、前漢朝 7代目皇帝・武帝が南越国を滅ぼすと、その旧領の華南地方を併合する。この一環で海南島を直轄すべく、翌紀元前 110年、珠崖郡と儋耳郡の 2郡と 16県が設置されることとなった(交趾刺史部に帰属)。この直後に行われた戸籍調査により、海南島内には、23,000戸余りの住民が確認されたという。
当時、珠崖郡側には 11県が配されていた。すなわち、
曋都県(今の 海南省海口市瓊山区龍塘鎮)
、紫貝県、苟中県、玳瑁県、顔盧県、山南県、臨振県の 7県と、残り 4県名は不明という。また他方、儋耳郡下には 5県が配されていた。この時、現在の澄邁県エリアは、珠崖郡下の 苟中県(県役所は、那舍都に開設 ー 今の澄邁県美亭村の北東部)に統轄されていた。下地図。
しかし、統治スタート初年度から島内原住民の武装蜂起が頻発し、治安は常に不安定なままで、ついに紀元前 82年夏に
儋耳郡(儋耳県城。今の 海南省儋州市三都鎮旧州村)
が、紀元前 46年春には
珠崖郡(曋都県城。今の 海南省海口市瓊山区龍塘鎮)
が廃止され、海南島内のすべての郡県レベルの役所閉鎖に追い込まれるのだった。以降、
朱盧県(今の 海南省海口市瓊山区旧州鎮)
が、大陸側の 徐聞県城(今の
広東省湛江市
徐聞県。下地図)へ転出され、海南島を間接統治するスタイルが模索されることとなった。実質的に中央朝廷の直轄支配が及ばない島となり、海南島(ちょうど日本の関東地方と同じ面積)は無法空間と化すわけである。
時は下って南北朝時代、俚族リーダーの冼夫人が、和平工作により 広西省、海南島一帯の諸部族 1000余りをまとめ上げ、時の 政権(南朝方の梁王朝と 陳王朝、全国統一した隋王朝)に臣従する。ちょうど梁王朝に従属した 540年、その命により海南島を直轄すべく、
儋耳郡城跡地(上地図。今の 海南省儋州市三都鎮旧州村)に崖州の州役所を開設する
。こうして再び、海南島に中央朝廷の直接支配が及ぶこととなり、実に 600年にも及んだ無法空間の歴史に終止符が打たれることとなった。
隋代後期の 607年、苟中県城跡に【初代】澄邁県が新設されると、配下に 4郷を統括した(珠崖郡に帰属)。下地図。
間もなく、
澄邁県役所が今の 澄邁県老城鎮へ移転される(【ニ代目】澄邁県)
。
唐代初期の 622年、珠崖郡が崖州へ改編される(上地図)。
631年、
崖州下の瓊山県が分離され、瓊州が新設される
。澄邁県は引き続き、崖州に属した(上地図)。
639年、瓊山県と澄邁県から一部が分離され、会口県(今の 澄邁県永発鎮博羅村)、顔羅県、容瓊県の 3県が新設される(上地図。これら 3県は瓊州に帰属)。
667年、瓊州配下のうち 臨機県(今の
海南省臨高県
)以外の、瓊州城、瓊山県城、会口県城、顔羅県城、容瓊県城、楽会県城の 1州 5県城が、黎族の波乱軍によって軍事占領されてしまうと、唐朝廷はやむを得ず、臨機県を崖州の州都に定める。 124年後の 789年、嶺南節度使の 李復(739~797年。
隴西成紀 ー 今の甘粛省天水市秦安県
出身。江陵県長官、饒州、蘇州刺史、容州刺史、鄭滑節度使 などを歴任し、各所で善政を敷いた行政官として有名)が先の 1州 5県城を再平定すると、瓊州都督府を新設する。同時に、臨機県城に併設されていた崖州都督府が転出される。
以降、瓊州都督府は、崖州、瓊州、儋州、振州、万安州の 5州と、配下の 22県を統括する、海南島の最高行政府となった。この時、澄邁県は引き続き、崖州に属した。
五代十国時代の南漢王朝の治世下の 957年、顔羅県と会口県が廃止され、その大部分が
澄邁県
へ再編入される。下地図。
北宋時代、澄邁県の配下には、貴平郷、恭順郷、永泰郷の 3郷が配されていた。 972年に崖州が廃止されると、瓊州へ編入される(同年、振州が崖州へ改称される)。これ以降、澄邁県は清末まで瓊州に統括されることとなった。上地図。
この時、瓊州下には、
瓊山県 & 舍城県(共に瓊州城内に併設)
、
澄邁県
、
臨高県
、
文昌県
、
楽会県
の 6県が配されていた。上地図。
1073年当時、海南島には、1州 3軍 10県 2鎮が存在していた。 1州とは瓊州を指し、正式名称は 瓊管安撫司(1119年、瓊管安撫都督へ改編)であった。
元代の 1278年、瓊管安撫都督が瓊州路安撫司へ改編される。
明代初期の 1369年、瓊州路安撫司が瓊州安撫司に改編される。
翌 1370年、瓊州が
瓊州府(府都は今の 海南省海口市瓊山府城鎮)
に昇格されると、崖州、儋州、万州の 3州と 13県(後に廃止された県もあり、10県へ減少する)を統括した。これ以降、海南島は統一的な行政管理機構として、瓊州府の立場が不動のものとなる。上地図。
1465年、襲撃した倭寇により海南島が席巻されると、
【二代目】澄邁県城(今の 澄邁県老城鎮。下地図)
も戦火にまきこまれ、灰燼に帰すこととなった。翌 1469年、大学士の 丘濬(瓊山出身)が、県役所のより内陸部への移転を建議する。最終的に 保義都北畔(今の 澄邁県北洋村北畔仔。下地図)に県城築城のための敷地が選定されるも、澄邁県出身の 挙人・李宣ら、地元紳士が反対意見を表明し、結局、計画は立ち消えとなる。
1546年、県長官の秦志道が地元民の意見を無視し、当初の予定通り、保義都北畔での県城築城を強行する。まず、北畔嶺の上下の土地 20万 m2を購入し、最初に県立学校が、続いて、県衙役所の基礎工事が進められるも、当時の担当官らが建設費用を浪費してしまったため、完成に至らず、途中で中断されることとなった。
1553年、県長官の許応龍が倭寇らの海賊被害を避けるべく、県役所の移転を思案していた中、澄邁県出身の齢貢生である李向陽が再度、北畔嶺への移転を建議すると、これに大いに賛同する。しかし再び、県下の紳士らの強烈な反対に遭い、また、住民らも海賊被害などで生活が困窮していたことから、県役所移転議論は立ち消えとなってしまうのだった。
清代後期の 1875年、最初に県役所の移転論争が始まってから 324年が経過した中でも、またまた同論争が再燃する。地元澄邁県の紳士らが再び、県役所の移転地について喧々諤々の議論を交えるようになり、最終的に皆が連れ立って北畔嶺へ視察に出かけたという。しかし、この時代になると、多くの人が不適切だと結論付けざるを得ない土地柄となっていたらしい。こうして北畔嶺移転案は、永遠に葬り去られることとなった。
1891年、県長官の李徳重が、
金江鎮(今の 澄邁県中心部)
の徐江繞ら地元紳士と、永泰郷の各都図郷民の資金的援助により、金江行署(役所)の建設工事をスタ―トさせる。しかし、工事の途中で李徳重が病没すると、その後任として、張士鋥、俞煐、薛賀図らの 3人が澄邁県長官職を継承しつつ、1895年までの 4年越しの工事を完遂させることとなった。そして完成後、県長官の薛賀図が、県役所を正式に金江鎮金江行署へ移転させる。こうして、426年間にも及んだ県役所移転論争は、全く別の候補地で決着を見ることとなった。
以後、金江鎮は【三代目】澄邁県城となり、今日まで澄邁県中心部として君臨することとなる
。
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