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潮州市
訪問日:20--年-月-旬 『大陸西遊記』~
広東省 潮州市 ~ 人口 270万人、 一人当たり GDP 31,000 元
➠➠➠ 潮州市内の 城跡リスト ➠➠➠
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潮州府跡(義安県城、海陽県城、潮陽郡城)
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葫芦山腰城(西湖山腰城)
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八角楼古寨(客家の城塞集落遺跡)
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饒平県城
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客家の 城塞集落群 ~ 饒平三韵(道韵楼、新韵楼、饒韵楼)、紫来楼、灰楼、、、
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黄岡城塞(黄岡堡)
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大埕所城(大城守御千戸所、大城所城)
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拓林塞
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旗頭山砲台陣地
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鯉魚寨(明代末期、地元の 軍閥・朱阿堯が清軍と戦った)
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龍湖寨
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象埔寨 と 孚中寨(武状元府邸)~ 客家の城塞集落遺跡
【 潮州市の 歴史 】
現在の潮州市域には、5000年前から古代人類の生息が確認されているという。後に、閩族や 閩越族(元々の原住民と、浙江省南部にあった越国の亡命流民らとの混血民族)へ連なる人々の先祖に相当する。
秦の始皇帝は紀元前 214年に華南地帯を武力平定後、翌紀元前 213年、郡県制を導入し中央集権体制の浸透を図る。未開の閩越族らが跋扈した潮州市エリアは、 南海郡下の 掲陽戍(今の広東省
梅州市
豊順県)と 閩中郡(郡都は 東冶県城【今の福建省
南平市
建瓯市】)との 2行政区に分かれて統括されることとなる。
この地域で圧倒的多数を占めた閩越族の勢力を削ぐべく、閩越族の統治区分を分ける必要があったと考えられている。
その秦朝も紀元前 207年に滅亡すると、中原が再び戦乱となる中、この華南地方で 南越国(王都は今の広東省
広州市
。初代国王は趙佗)が建国される(紀元前 204年)。紀元前 202年の 垓下の戦い(現在の 安徽省蚌埠市固鎮県濠城鎮垓下村)を経て全国統一を果たした劉邦により前漢王朝が建国されると、その冊封体制に入り藩国の一つという扱いを受けることとなる。
しかし、前漢朝の劉邦は、沿岸部の交易を一手に握って強大化する閩越国と南越国の両藩国の力を削ぐべく、両者から一部の領土を割譲し、中間地帯に新たに 南海国(王都は、現在の福建省
龍岩市
武平県に開設。一説には、
今の潮州市中心部の金山付近
に開設された、との説あり)を建国させる(紀元前 195年)。その版図は、秦代の揭陽戍の行政区の大部分を占めるものであったという。上地図。
西漢朝の劉邦は紀元前 195年、閩越国下で南武侯に封じられていた 織(百越族の一首長)を南海王に格上げすると、南越国の東端に南海国という小さな侯国を建国させる。
その版図は南越国の龍川県の東部にあたり、ちょうど秦代に設置された揭陽戍の行政区に相当するものであった(上地図)。
しかし間もなく、南海国は地元の閩越民族らと協力し反漢で挙兵すると、前漢朝廷は淮南国王の 劉長(紀元前 198~前 174年。劉邦の子。 2代目皇帝・恵帝の劉盈、3代目皇帝・文帝の劉恒の異母弟にあたる)を派遣して南海国の反乱を制圧し、南海王・織は降伏に追い込まれる。下地図。
劉長は、南海国の軍民全てを自領の 上淦(今の 江西省宜春市樟樹市あたり)まで強制移住させ、南海王だった織を庶民へ降格させてしまう。
その後、移住先でも残党勢力によって再反乱が勃発するも、劉長によって再鎮圧される。
しかし、翌紀元前 174年、その劉長自身も閩越族の残党勢力と通じて謀反を企てているとの嫌疑をかけられ、拘束される。朝廷内では死刑が主張されるも、異母兄の文帝によって赦免され、最終的に自ら食事を断ち餓死することとなる。
その後、南海国の旧領は南越国に再併合されると、以後、掲陽県(秦代の掲陽戍城を継承 ― 今の
梅州市
豊順県)が一帯を統括した。後に、
海陽県(今の 潮州市中心部)
が 分離・新設され、沿岸部を統括する。
その南越国も紀元前 111年、前漢朝 7代目皇帝・武帝の軍事遠征により滅ぼされると(閩越王である郢も東部より南越国に出兵して協力)、その旧領は 9郡に分割される。この時、南越国が設置した海陽県がそのまま踏襲され、今の潮州市一帯を管轄した。
なお、先の秦朝に続いて、漢王朝の時代でも、中原から漢民族の移民が奨励され、民族同化が図られていくわけであるが、実際は遅々として進まず、主に移住に応じた住民らも閩南地方の 莆田(福建省)出身者に偏っていたとされる。本格的に民族の混血化が進むのは唐代以降で、特に五代十国時代の戦乱期、混乱を避けた漢民族の移民が激増し、この地方の民族構成比率が大きく変わっていくこととなるのだった(客家の誕生)。
前漢王朝から権力を簒奪した王莽により新朝(紀元 8~23年)が建国されると、海陽県と掲陽県が合併されて南海亭となり、その亭役所は旧
海陽県城(今の 潮州市中心部)
内に開設される。
新朝が滅び、後漢王朝が再建されると、南海亭は掲陽県へ再改名される(海陽県は復活せず)。
時は下って、東晋時代末期の 413年、東官郡(331年、南海郡の東部が 分離・新設された。かつ同年、掲陽県が海陽県へ再変更される)が分離されて義安郡が新設される。義安郡役所は、そのまま 海陽県城(今の 潮州市中心部)に併設される。下地図。
時は下って、隋朝が南北朝を統一した 590年、中国全土で郡制が廃止され、州制へ統一されるにあわせ、義安郡が 潮州(海岸線に近かったため「潮水が往来するエリア」という意味から命名された)へ改編される。そのまま海陽県城が州城を兼ねることとなる。
隋朝 2代目皇帝・煬帝の治世下の 607年、中国全土で再び州制が廃止され、郡制に統一されると、潮州は再び、義安郡へ改編され、東楊州の管轄下に帰属される。
唐代の 621年、再び、潮州へと昇格される(下地図)。 循州と韶州とともに、循州総管府(府都は今の
恵州市
)に帰属された。その後も度々、行政区の再編が行われ、福建省側へ編入されたり、潮陽郡へ改名されたりを繰り返す。
唐代以後、中原の戦乱を避けた多くの漢民族らがこの華南地方へ移住し(客家ら)、中原の最新文明が当地に伝播され、潮州エリアでも華北文化が各地で根付きつつあった。
さらに時は下って南宋末期の混乱期、福建省
莆田市
から多くの移民が潮州方面へ避難し、そのまま定住したという。
元代には潮州路、明代には潮州府となる。
特に明代末期の 1633年、潮州府の統括区域が史上最大を記録する。すなわち、
海陽県(今の 潮州市湘橋区)
、
潮陽県(今の 広東省汕頭市潮陽区)
、
掲陽県(今の 広東省掲陽市榕城区)
、
恵来県(今の 広東省掲陽市恵来県恵城鎮)
、
普寧県(今の 広東省揭陽市普寧市洪陽鎮)
、
澄海県(今の 広東省汕頭市澄海区)
、
饒平県(今の 潮州市饒平県三饒鎮)
、 平遠県(今の広東省
梅州市
平遠県仁居鎮)、程郷県(今の広東省
梅州市
平遠県大柘鎮東片村)、大埔県(今の広東省
梅州市
大埔県茶陽鎮)、鎮平県(今の広東省
梅州市
蕉嶺県蕉城鎮)の合計 11県を管轄する大行政府となっていたのだった。下地図。
なお、明代の 1575年、
南澳島
に初めて軍駐屯基地が 2ヵ所開設され、福建省と広東省とで別々に管理されることとなる。翌 1576年、南澳鎮が新設される。
清代初期、台湾の鄭成功が潮州遠征を率いた時、この島を占領して本部基地としていた。
その鄭氏台湾も 1683年に清朝に降伏すると
、直接的な脅威は無くなるも 1685年、清朝は南澳総兵と呼ばれた南澳島守備軍の管轄範囲をさらに拡大し、福建省から 台湾、広東省に至る海域の防衛本部基地としたのだった。
劉進忠 と 潮州城の戦い
劉進忠(?~1682年)はもともと 遼陽(今の 遼寧省遼陽市)出身で明軍の下級武官であったが、1645年に 蕪湖(今の 安徽省蕪湖市)で清軍と交戦中に拘束され、そのまま清方に帰参する。以後、同じく明方から清軍へ帰順していた耿精忠に従い、福建省の平定戦で戦功を挙げ、靖南王となった耿精忠より右路鎮標副将に抜擢される。1667年に広東水師左路となり、1669年に潮州鎮総兵に着任する。
しかし、清朝政府は途中で帰参した劉進忠に対し不信感をぬぐい切れず、続順公の沈瑞、副都統の鄧光明を特別に目付け役として派遣し、潮州府の守備を同時担当させる。
劉進忠はこの決定に大いに不満を抱き、府城内に柵を設けて、沈瑞、鄧光明は南半分を、自身は北半分を管轄する、という南北分離の統治体制を採用する。
5年後の 1674年3月、福建で耿精忠が 呉三桂(雲南省・四川省)の 反清挙兵(三藩の乱)に合流すると、潮州府城でも耿精忠が挙兵し、清方の派遣した沈瑞、鄧光明らを城内から追放するとともに、
潮州城の防衛力強化のために北西の丘陵地帯に 出城「湖山腰城」を築城する
。
同年 7月、呉三桂や耿精忠に組していなかった平南王の 尚可喜(広東省)が、清方として潮州城の劉進忠の討伐にやってくると、劉進忠は南西に広がる山岳地帯で迎撃する。戦線が膠着状態となる中、さらに 9月14日、もう一隊の清軍が広東巡撫の劉秉に率いられて進駐すると、劉進忠は潮州城へ撤退し籠城する。清軍は山沿いに陣地網を構築し、韓江を水上封鎖して四方を完全包囲する。
当時、劉進忠は耿精忠との間にすでに軋轢が生じており、台湾の鄭経に接近していた。鄭経から 定伯(定虜伯)に封じられ、清朝の元号から南明政権の 年号(永歴)を使うようになる。
鄭経の支援の下、劉進忠らは潮州城を死守し、最終的に潮州へ進軍してきた清軍を撃退することに成功する。清軍を率いた尚之孝は敗走し、
普寧県城(今の 広東省揭陽市普寧市洪陽鎮)
まで撤退する。
12月3日、劉進忠は周囲の平定戦を展開すべく、
饒平県城
に逃亡していた続順公の沈瑞を攻撃する。沈瑞は籠城するも食料が尽きたため降伏し、そのまま身柄は台湾へ送還されたのだった。
一方、1674年、康親王・傑書(1645~1697年。初代皇帝ヌルハチのひ孫に当たる皇室出身者)が征南大将軍として浙江省方面軍を率い、衢州(浙江省衢州市)に展開中だった耿精忠の軍と対峙していた。台湾の鄭経との密約により、後方の福建省南部の守備は鄭経にゆだねて、全軍を北上させていた耿精忠だったが、清方が江西省方面から派兵した別動隊により福建省南部の 漳州、泉州の 2州が奪還されると、戦意を失った耿精忠は浙江省から撤退する。最終的に本拠地の福州まで撤退した耿精忠は、康親王の率いる清軍に降伏する(1676年8月)。
これに対し、台湾の鄭経は部下の許耀に数万の大軍を預けて福州の奪還を図るも、康親王の清軍の前に大敗を喫する。こうして、康親王の率いる南西軍は、福建省の大部分を再平定したのだった。
翌 1677年3月、耿精忠も清方に加わって鄭経を攻撃すると、多勢に無勢の中、鄭経は厦門へ撤退せざるを得なくなる。
劉進忠は孤立無援となり、同年 6月初めに清朝に降伏すると、そのまま潮州鎮総兵の職を保証される。
最終的に 1680年、清軍は南下して 厦門、金門、銅山などの鄭経の拠点地区を制圧すると、鄭経らは残存兵力を率いて台湾への撤退に追い込まれるのだった
。
しかし、清朝廷は劉進忠や耿精忠が清朝に完全に帰順していないと目しており、
1681年に呉三桂の孫の呉世璠を昆明で滅ぼすと
、翌 1682年、劉進忠と耿精忠を王都北京に誘い出し、拘束して凌遅刑で処刑した後、その首を城門に晒すこととなる。
上写真は、潮州市博物館に展示されているもので、元々は劉進忠を祀った廟所に掲げられていたといい、彼の反清挙兵のエピソードは地元の 歌集『三春夢』に取り上げられており、潮州市民に高く評価される人物となっている。なお、この刺繍であるが、潮綉作品は中国でも代表的な 4大刺繍地方の一角を占め、地元の主力産業として古くから全国に知られていたという。
清代の 1733年、潮州府下の 程郷県、平遠県、鎮平県と、恵州府の 興寧県、長楽県が 分離・合体されて、新たに 嘉応州(州都は程郷県城 ー 今の広東省梅州市平遠県大柘鎮東片村)が新設される(下地図)。
以後、海外でも名を馳せる潮州閥と言われる人々の出身地は、この残された潮州府下の諸県の出身者とされることになる。すなわち、
海陽県(今の 潮州市湘橋区)
、
潮陽県(今の 広東省汕頭市潮陽区)
、
掲陽県(今の 広東省掲陽市榕城区)
、
恵来県(今の 広東省掲陽市恵来県恵城鎮)
、
普寧県(今の 広東省揭陽市普寧市洪陽鎮)
、
澄海県(今の 広東省汕頭市澄海区)
、
饒平県(今の 潮州市饒平県三饒鎮)
、豊順県(今の広東省
梅州市
豊順県)の 8県であり、世に言う、「潮州八邑」を構成する地域である。
1858年、アロー号事件(第二次アヘン戦争)に伴う天津条約により、潮州港(後に汕頭港に変更)の開港が決定される。
こうして対外開放された
汕頭市の 港湾エリア(金平区)
は潮州府下の重要な交易港となり、その繁栄は飛ぶ鳥を落とす勢いとなった。潮州府城下でも河川交通に代わる交通網として、 1904年に潮州府と汕頭埠との間で鉄道敷設工事が開始され、1906年に完成する。その区間の列車は「潮汕号」と名付けられ、以後、「潮汕」という新造語が世に広く浸透することとなる。
中華民国時代、潮州府が廃止され、海陽県が潮安県へ改称される。
上写真は 1939年6月、日本軍により撮影された 旧潮州府城(潮安県)の遠景。韓江にかかる広済橋には樹も生えていたようだ。また、その東岸には韓文公祠の屋根が見える。韓江上にあった 三角州「鳳凰州」にはまだ橋がかけられていなかった。
日中戦争時代、潮州城(潮安県城)や一帯の県城網を巡って、日本軍との攻防戦が繰り広げられた(上写真)。
1989年より現在の潮州市制が策定されると、潮州市下で
湘橋区
、
潮安区
などが確定される。
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