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常徳市(武陵区)
訪問日:2014年5月中旬 『大陸西遊記』~
湖南省 常徳市 ~ 人口 610万人、 一人当たり GDP 42,000 元
➠➠➠ 常徳市内の 城跡リスト ➠➠➠
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常徳府城(武陵郡城・臨沅県城)
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索県城
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漢寿県城
【 常徳市の 歴史 】
常徳市の歴史は長い。洞庭湖の西側に位置し、沅江の大河にも恵まれた地には、9000年前からの新石器時代の遺跡も残されているという。
春秋戦国時代、秦の昭襄治世下の紀元前 277年、 蜀方面より江南地域へ侵攻した秦国配下の 蜀守将「張若」が、巫郡及び江南一帯を武力平定したことが史書に記述されている。
この直後、秦国により黔中郡が設置される(郡役所は沅陵県城内に開設)。 同時に、現在の常徳市中心部に臨沅県城も築城される(今の武陵古城の東門付近)。 そもそも、この地は古くから楚の領国下にあり、楚国王都に近かったため、 常徳市一帯は防衛上の点で重視され、現在でも 10箇所近い古城跡や要塞跡が残されている。
秦の滅亡後に前漢を建国した劉邦は、「武力をもって戦いを治め、陵をもって統治する」という意味で、黔中郡を武陵郡へと改名し、また郡役所も臨沅県城へ移転される。そして荊州に帰属させることとした。
前漢が滅び、新王朝が成立するも後漢により平定される。 この混乱期、武陵郡の郡役所は 義陵(現在の溆浦県)に移転されていたが、 後漢朝の光武帝の治世下の紀元 50年、再び、臨沅県城へと戻される。そして 134年、荊州役所である荊州刺史が 索県城(今の
鼎城区韓公渡鎮城跡村
) へ移転され、ここが 漢寿城(別名、控龍城)へ改称される。なぜ荊州郡役所がこの地に遷都されたのかは不明。
そして三国時代。後漢朝 12代目皇帝・霊帝の没後の 189年、荊州刺史・王叡の後任として、劉表が荊州刺史に任命される。しかし、長江南岸は地方豪族が割拠し、治安もままならぬ状態となっていたようである。このため、州役所のある(漢寿)索県城へ行くことを止め、荊州北側の宜城に入城し、荊州北部を治めるのがやっとの状態であった。後に、荊州役所を宜城近くの襄陽城に移す。208年、劉表はこの襄陽城にて荊州牧として病死する。
赤壁の戦い前に、劉表の次男である幼い劉琮が後継者として擁立され、すぐに曹操軍に降伏する。一時期、荊州全土が曹操配下となり、すぐにその統治継承のため、新しい郡司をそれぞれの任地へ派遣したようである。
そして、赤壁の戦い後、劉備はこの曹操配下の荊州 4郡の奪取をもくろみ、本拠地「公安(江陵)」から武陵郡都の「臨沅城(今の常徳市)」を攻撃する。このとき、張飛が活躍する。
曹操により派遣されていた 武陵郡司「金旋」は、このとき戦死する(自発的に降伏を願い出るも、なぜか受け入れられず)。
209年の 武陵城(臨沅城)攻略後、劉備は張飛に城の修築を命じている。
劉備は荊州 4郡平定後、諸葛亮に荊楚の良材として「龐統」と並び称される「廖立」を推挙され、彼を長沙太守に抜擢したが、「廖立」はこの武陵郡の臨沅県城出身である。
そして 220年の関羽戦死の後、呉の領有となる。
三国時代の統一王朝である西晋のころ、現在の常徳市域は 武陵郡、天門郡、南平郡にそれぞれ分かれて帰属された。
唐代、武陵と澧州は江南西道に帰属される(唐代 621年に、荊州から朗州へ監督州の変更が進められ、 一時、朗州常徳城と言われるようになった)。
北宋の時代、朗州が鼎州へ、澧州は澧陽軍州へ改名される(両者ともに荊湖北路の管轄下に入った)。 南宋時代の 1165年、鼎州が常徳府へと昇格されて、史上初めて常徳の名が登場することとなった。
元代には常徳府、澧陽軍州はそれぞれ常德路、澧陽路へと改名される。湖広行中書省江南北道の管轄下に配された。
明代初期、常徳府と澧陽路は再び、常徳府と澧陽府へと戻される。 1373年には、常徳府城の大工事が進められ、土塁から総石積み城壁へ改修されている。1376年、澧陽府は降格され、澧州とされた。
清代の 1729年、澧州は昇格され、直隷州となる。清末まで、常徳府は 武陵県、桃源県、龍陽県、沅江県の 4県を、澧州直隷州が 石門県、慈利県、安郷県、安福県(今の臨澧県)、永定県の 5県を統括することとされる。
日中戦争下の 1943年11月、日本軍は 7個師合計 10万の兵力で常徳の攻略戦を展開する。これに対し、中国軍は王耀武の率いる第七十四軍が守備を担うこととなった。中国軍の主力は常徳の北東地区に展開されており、ここで日本軍との大激戦が行われたわけである。この防衛ラインを突破された後、空爆と戦車による日本軍の常徳市街地への攻撃は 16日間にも上り、全市街地が破壊され尽す惨状となったようである。さらに、常徳城内の守備兵は 18日間も持ちこたえ、残存兵力も数百人となる中でも、さらに 6日間の激戦の末に、ついに落城となる。日中戦争でも屈指の大激戦地として、「常徳の会戦」と記憶されるものである。
中華人民共和国が成立後、1988年により現在の市制が継承されている。
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