ホーム
中国地図 ~
三国志 遺跡 ~
中国 オススメ
世界の城郭
日本の城
歴史 雑学
城郭都市 概説
当研究会 情報
中国地図 から
≫
安徽省 地図
≫
亳州市
訪問日:20--年-月-旬 『大陸西遊記』~
安徽省 亳州市 ~ 人口 505万人、 一人当たり GDP 36,000 元
➠➠➠ 亳州市内の 城跡リスト ➠➠➠
▼
クリック
▼
譙県城(焦国王都・焦城、亳州城、譙郡城、南兗州城、亳県城、熊韜衛城、武平衛城)
▼
城父県城(夷邑城)
▼
山桑県城(蒙城県城)
▼
渦陽県城
【 亳州市の 歴史 】
現在の亳州市域では、既に新石器時代に人類の生息が確認されており、比較的早くに文明化が進んだエリアであった。
夏王朝時代、現在の亳州市域の北西部には有虞氏が、南東部には涂山氏の侯国が配されていた。
殷(商)王の 成湯(商湯)が夏王朝を滅ぼし、諸侯に推挙されて 殷(商)王朝を建国すると、 亳の 地(今の 河南省商丘市梁園区)に最初の王都を開設する(以後、器へ遷都されるまでの 190年間、王都を務めた。下地図)。この 殷(商)王朝時代、現在の亳州市域のその他のエリアは、嵇方国の版図下に組み込まれていた。
西周王朝時代、武王は、新石器時代から続く 炎帝(五榖神農大帝。中原地方で漢民族の一部族集団を率いた)の末裔である姜氏を、焦国王に封じる。焦国は王都を
河南省三門峡市
陕州区陕県からこの地に遷都し、焦城(今の 亳州市中心部の譙城区)を開設する。
春秋時代初期、焦国が陳国によって滅ぼされると、王都・焦城も陳国に併合される。紀元前 637年には、楚国が陳国を攻撃し、焦城(今の 亳州市譙城区の中心部)、夷邑城(今の 亳州市譙城区城父鎮)などを占領する。
秦の始皇帝が中原を統一すると、焦城と夷邑城が、それぞれ譙県と城父県へ改編される(泗水郡に帰属)。譙県はその後、碭郡に移籍される。
前漢時代には、沛郡に属した。
後漢時代の 42年、譙県城に豫州役所が開設され、一時的に州都を兼務する。上地図。
この時代、地方行政区において、州が最上級位に配される中、譙県城は、譙郡と豫州の首府を兼ねることとなり、当地の中核都市として君臨することとなった。豫州の配下には、潁川郡と汝南郡の 2郡があり、また 梁国、沛国、陳国、魯国の 4侯国も立国されており、さらに、それらの配下に 97もの県城が配されるという、大所帯の行政区であった。
後漢末の 219年1月、譙郡城(譙県城)は沛国王都も兼務することとなる。上地図。
曹操が 220年に死去すると、同年中に後漢朝から権力禅譲を受けた 曹丕(187~226年)が魏王朝を建国する。その翌 221年には、譙郡城、
許昌城
、
長安城
、
洛陽城
、
鄴城
の 5城が「陪都(準王都)」に定められる。
この時代、譙郡下には、相県、蕭県、酇県、費亭、苦県、宋県、城父県、山桑県、銍県、竹邑県、符離県、蕲県、洨県、龍亢県、虹県が配されていた。下地図。
西晋時代、譙国が新設されていたが、後に譙郡へ改編される(郡都は、そのまま譙県城が兼務)。
北魏時代の 507年、新設された南兗州の州都となる(下地図)。
577年、北周朝が北斉朝を滅ぼすと、南兗州はそのまま継承される。譙県城は軍事上の要衝として重視され、北周朝は総管府を開設し、複数の州にまたがる軍事機構を統括させる。そして 579年、南兗州が亳州へ改称される。
隋朝 2代目皇帝として煬帝が即位した直後の 607年、亳州が譙郡へ戻される。
唐代初期の 621年、譙郡は再び、亳州へ戻される。その配下に、譙県(今の 亳州市中心部の譙城区)、山桑県(今の 亳州市蒙城県)、城父県(今の 亳州市譙城区城父鎮)、臨渙県(今の
安徽省淮北市
濉溪県臨渙鎮)、酇県(今の
河南省商丘市
永城市酇城鎮)、鹿邑県(今の
河南省周口市
鹿邑県の南西)、永城県(今の
河南省商丘市
永城市)、真源県(今の
河南省周口市
鹿邑県)の 8県を統括した。
622年、亳州に総管府が開設されると、亳州、宋州、潁州、沈州、譙州 などの諸州を統括した。 624年、亳州総管府が都督府へ改編される。
時は下って、北宋時代初期の 1020年ごろ、亳州(淮南路に帰属)は集慶軍へ昇格され、節度使が開設されて、7県城を統括した。上地図。
金王朝時代、亳州は南京路に属し、配下に 6県 5鎮を監督した。
元王朝時代、亳州は汴梁路に属し、6県を統括した。
元代末期の 1351年5月、劉福通(1321~1363年。潁州 ー 現在の
安徽省阜陽市
界首市 出身)が、韓山童(1310?~1351年)らと共に民衆反乱を起こし、打倒元朝で武装蜂起する(紅巾の乱)。 反乱軍は 安徽省・河南省一帯を席巻した後、1355年、韓山童の 子・韓林児(1340~1366年)を 皇帝(明王)として韓宋王国を建国する(自らは小明王を称した)。この時、亳州を王都に定めるも、3年後の 1358年、汴梁城(今の
河南省開封市
)へ遷都する(上地図)。最終的に、1363年3月に張士誠の攻撃によって壊滅し、リーダーの劉福通も戦死に追い込まれる。紅巾軍の残党と 宋王・韓林児は、朱元璋の傘下に下って各地を転戦し、明朝建国に大きく貢献していくこととなった(天下の大勢を得た朱元璋は、1366年、利用価値の無くなった韓林児を暗殺する)。
明代初期、亳州は亳県へ降格される(南直隷鳳陽府に直轄)。 1389年、亳県城に併設されていた熊韜衛が、武平衛へ改称される(河南都司に帰属)。
1496年、再び亳県から亳州へ昇格すると、その行政区の南半分を司った 地方役所「義門巡検司」が開設される(上地図)。
清代、亳州は安徽布政使司に直轄された。
この時代、亳州は、譙県、太和県(今の
安徽省阜陽市
太和県)、蒙城県(今の 亳州市蒙城県)を直轄した。
1864年、太平天国の乱と同時期に発生していた、捻軍の 乱(1853~1868年。上地図)では、反清を掲げた農民反乱軍が、長江以北から 安徽省北部、及び江蘇省、山東省、河南省三省の一部を席巻し、大混乱に陥れていた。最終的に清軍が捻軍を制圧すると、譙県、蒙城県、阜陽県の 3県の一部ずつが分離され、渦陽県(今の 亳州市渦陽県)が新設されることとなる。
中華民国が建国された直後の 1912年、亳州が廃止され、亳県となる(安徽省に帰属)。
© 2004-2024 Institute of BTG
|
HOME
|
Contact us