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蚌埠市
訪問日:20--年-月-旬 『大陸西遊記』~
安徽省 蚌埠市 ~ 人口 344万人、 一人当たり GDP 66,000 元
➠➠➠ 蚌埠市内の 城跡リスト ➠➠➠
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【初代】鐘離県城(鐘離子国 王都、燕県城、濠州城、臨濠県城、臨淮県城、臨濠府城)
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鳳陽県城(中立府城、鳳陽府城、廬鳳道城)
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五河県城(淮安軍城)
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懐遠県城(荊山県城、懐遠軍城)
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臨淮県城
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三司県城
【 蚌埠市の 歴史 】
有史以前、現在の蚌埠市一帯は淮夷の地と呼称される、不毛の地であった。
伝説によると、大禹が治水事業のため、南下して淮河や泗水に出向いた際、 今の蚌埠市禹会区内にあった 集落地「涂山娶」に立ち寄り、ここの涂山氏の 長女(女嬌)を妻として娶った、という。彼は結婚後、再び黄河治水事業のため北へ移動してしまい、以降、当地の妻と再会することはなかったが(一人息子の啓は、女嬌と共に当地に残った)、その後、彼が夏王朝を建国し、初代国王に就任することとなるわけである(紀元前 21世紀)。
西周時代には、鐘離子国が立国されていた(下地図の、鐘離城は旧王都)。春秋戦国時代に入り、各地の諸侯が死闘を繰り広げるようになると、今日の蚌埠市域は、徐国、魯国、宋国、呉国、越国、楚国など、目まぐるしくその支配者を変えていった。下地図。
秦王朝の支配下、全国に郡県制が導入されると、今の蚌埠市域は淮河を挟んで南北に分割統治される。すなわち、淮河北岸(今の蚌埠市固鎮県一帯)は泗水郡下の蕲県と徐県に、淮河南岸は九江郡下の曲陽県と 鐘離県(今の 蚌埠市鳳陽県)に統括された。下地図。
なお、この秦代に新設された鐘離県であるが、かつての鐘離子国の王都跡地で、前後漢時代、西晋時代にも、そのまま県城として踏襲される。東晋時代の一時期、燕県へ改称されるも、北斉時代に鐘離県へ戻され、そのまま元代まで継承される。唐代から元代まで、この鐘離県城が濠州の州都を兼務することとなった。
時は下って、この南宋朝と金王朝が対立した時代、淮河北岸(今の 蚌埠市固鎮県一帯)は、宿州下の 蕲県、霊璧県(今の
安徽省宿州市
霊璧県)、虹県(後に泗州へ移籍)の 3県に分かれて統括された(下地図)。
南宋朝統治下の 1257年、鐘離県(今の 蚌埠市鳳陽県)が分離され、懐遠軍と荊山県が新設される(引き続き、濠州に帰属。鐘離県城が州都を兼務。下地図)。1271年には、淮安軍と五河県が新設される。こうして、淮河沿いに 2県が新設され、淮河南岸の鐘離県城とあわせて、行政区画はますます細分化されていくこととなる。下地図。
元代の 1291年、懐遠軍が廃止され、荊山県が懐遠県へ改称されると、引き続き、濠州(州都は鐘離県城 ー 今の蚌埠市鳳陽県)に属した。以降、今の蚌埠市中心部の西半分は懐遠県に、東半分は鐘離県に統括される。下地図。
対して、淮河 北岸エリア(今の 蚌埠市固鎮県一帯)は、宿州下の霊璧県、泗州下の五河県、濠州下の懐遠県(両岸に行政区を有した)に分かれて監督された。下地図。
元朝末期の大混乱時代の 1369年、朱元璋(1328~1398年)が 張士誠(1321~1367年)を破り、濠州を奪還すると、鐘離県が臨濠県へ改名され(同時に、濠州も臨濠府へ改称)、翌 1370年には臨淮県へ変更される。
1373年、臨濠府が中立府へ、翌 1374年に鳳陽府へ改名され、さらに、臨淮県下の 太平郷、清洛郷、広徳郷、永豊郷の 4郷が分離され、鳳陽県が新設されると(鳳凰山の南側へ移転)、鳳陽県城が鳳陽府都を兼務することとなる。なお、命名は付近にあった鳳凰山に由来し、朱元璋は自らが決定したもので、今日まで延々と継承されてきたという。以降、現在の蚌埠市中心部西半分は懐遠県に、東半分は鳳陽県に属した。
当初、鳳陽府は中書省に直轄されるも、1403年に
南京
直轄となった。
淮河 北岸エリア(今の 蚌埠市固鎮県一帯)は、引き続き、宿州、懐遠県、鳳陽県、霊璧県(宿州に帰属。今の
安徽省宿州市
霊璧県)、五河県(泗州に帰属)に分かれて統括された(すべて鳳陽府に帰属)。
清代に入っても、明代の行政区をそのまま踏襲される。現在の蚌埠市域はすべてが、鳳陽府に統括されていた(1645年に新設された江南省に帰属。1667年、江南省が分離され、江蘇省と安徽省が新設されると、安徽省に属する)。1670年、鳳陽県城内に廬鳳道役所も新設されると、鳳陽府城は道都ともなり、当エリアの中核都市としての地位を絶対にしたのだった。
1720年代、泗州が鳳陽府から離脱されると、五河県も離脱する(下地図)。その他の諸県は、そのまま鳳陽府に属し続けた。1755年、臨淮県が完全廃止され、鳳陽県へ吸収合併される。同時に、淮河の対岸側だった小蚌埠鎮に、鳳陽県主簿衙門が開設される。
1863年、鳳陽県下の馬村溝の西側、また、懐遠県下の席家溝の東側、そして、霊璧県(今の
安徽省宿州市
霊璧県)下の 后楼(現在の 蚌埠市固鎮県后楼村)が分離され、三司県が新設される。そのまま安徽省鳳陽府に属した。
中華民国が成立した直後の 1912年、全国で府制が廃止されると、鳳陽府が廃止されて鳳陽県へ降格され、懐遠県、五河県と共に 安徽省(省都は、引き続き鳳陽県城が兼務した)に直轄されることとなった。
1914年、三司県が廃止されと、淮河北岸は霊璧県に、淮河南岸は鳳陽県に統轄され、現在の固鎮県一帯は引き続き、宿県、霊璧県、鳳陽県、五河県、懐遠県に分かれて統括された。
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