BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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吉林省 白山市 ~ 人口 97万人、 一人当たり GDP 67,000 元


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  臨江県城(神鹿県城、神州城、弘聞県城、鴨緑府城、渌州城)、四保臨江戦役紀念館
  豊州城(神郷県城)
  瑕州城(長嶺府城)
  興州城(盛吉県城)
  豊州城(安豊県城)
  長白府城(白山市長白朝鮮族自治県長白鎮)、長白山民俗博物館



【 白山市の 歴史 】

新石器時代、現在の白山市一帯では、すでに古代人類の生息が確認されている。
中原が春秋戦国時代(紀元前 770~前 221年)の渦中にあった頃、河北省・遼寧省一帯を領有していた燕国が二龍湖古城を築城し、東北地方に割拠する真番族らへの最前基地としていたが、国境地帯は常に不安定だったようで、南側の遼東郡に吉林燕長城も建設することとなる。
その燕国も紀元前 222年、秦国により滅ぼされると、遼東外の領地は放棄される。

こうした事情から、地場民族らが割拠し続けた東北地方であったが、ついに紀元前 108年、前漢朝 7代目皇帝・武帝の東征により、衛氏朝鮮(紀元前 195年、旧燕国の残党によって建国されていた)が滅ぼされると、玄菟郡が新設され、吉林省 南部一帯(現在の白山市を含む)を統括することとなる。下地図。
白山市

前漢朝末期の紀元前 37年、五女山城(卒本扶余城、紇升骨城。現在の 遼寧省本溪市 桓仁満族自治県桓仁鎮劉家溝村)を本拠地としていた、扶余族の 王族・朱蒙(チュモン。紀元前 58~前 19年)により、高句麗国が建国される。その後、高句麗は後漢朝に帰順したため、基本的に中国東北部は後漢朝の支配圏と認識されることとなるも、後漢末に至る頃には中央朝廷の支配力が低下したことから、高句麗は再び領土拡張を開始し、現在の白山市一帯をも自領に組み込むまでに膨張する。

しかし、197年5月に 9代目君主「故国川王」が崩御すると、高句麗政権内部で王位継承をめぐる内紛が勃発し、兄の延優と弟の発岐とが対立する。弟側は遼東太守の 公孫度(150~204年)の援軍を得るも敗北し、そのまま遼東地方へ落ち延びていくことになった。
その後も高句麗内部では政情不安がくすぶり続け、 219年、これに付け込んだ 公孫康(生没年不詳。公孫度の子)が高句麗領へ侵攻し、その集落の多くを焼き払い、多数の住民らを自領へ連行したという。

こうした公孫氏との対立もあり、高句麗はかなり前から魏国と朝貢関係を築いており、 238年に魏の 司馬懿(179~251年)が大軍を率いて、公孫淵(?~238年。公孫康の子)討伐戦をしかけると、 当時の 11代目当主「東川王(10代目当主・延優【山上王】の子)」も、北から援軍として参陣している。

白山市

公孫氏の滅亡後、国境を接するようになった高句麗と魏王朝は、徐々に関係がぎくしゃくすることとなり、ついに 242年、高句麗配下の一派が魏領の 西安平(今の 遼寧省丹東市 寛甸満族自治県)を侵犯したということで、 244年、魏の 幽州刺史・毌丘倹(?~255年)が、高句麗領へ報復攻撃をしかける。上地図。

この時の戦火により、白山市一帯や当時の 高句麗王都・丸都城(国内城。今の 吉林省通化市 集安市の中心部)など、多くの集落が陥落するも、冬の到来もあり、いったん魏軍は撤退することとなった。翌 245年に再侵攻を開始すると、高句麗領の大部分が魏領に組み込まれ、玄菟郡の管轄下で統括される。


その後、高句麗の残党勢力は失地奪還、さらに南下して遼東半島への進出を企図し、三国を統一した西晋王朝の内紛や五胡十六国時代の混乱に乗じて、その領土回復を進めていく。こうして、現在の白山市一帯も、かなり早い時期に高句麗領へ再併合されるのだった(下地図)。

白山市

しかし 343年、西方の匈奴族が建国した前燕朝が、その勢力を東方へ拡大してくると、今の白山市一帯も占領されてしまったようである。上地図。

その前燕朝も、370年に前秦朝に亡ぼされると、そのまま前秦朝の版図下として継承されるも、その前秦朝を破った後燕朝の治世時代の 404年、勢力を回復させた高句麗が遼東半島全域を征服し、自身の支配下に置くことに成功する。ここから 200年近く、高句麗支配の下、中国東北部、遼東半島一帯は太平の世を謳歌することとなった。

白山市

しかし、300年にも及んだ中原の戦乱を平定し、南北朝時代を統一した隋王朝は(589年)、ますます盛況な高句麗を打倒すべく、3度もの遠征軍を派遣するも(612~614年)、高句麗側は一歩も引かずに応戦し、隋軍の撃退に成功する。上地図。

こうした外征で体力を消耗した隋朝も短命で終わると、続いて唐朝が建国される(618年)。唐王朝もまた、大規模な高句麗遠征を 3度決行し、ついに 668年、新羅と連合することで高句麗の打倒に成功するのだった。
直後より、唐朝の直轄支配がスタートすると、現在の白山市一帯は、安東都護府下の 哥勿州都護府(府役所は、今の 吉林省通化市 輝南県三合堡に開設。下地図)に統括された。

白山市

しかし、唐朝の統治姿勢が差別的であったことから、地場部族らが反乱を繰り返すようになり、粟末靺鞨族と高句麗残党勢力が協力して、震国という独立王国を建国するに至る。その後、唐朝から幾度も遠征軍が派遣されるも、都度、撃退に成功し、周囲の部族らを傘下に加えつつ、ますます強大化していくこととなった。最終的に長期戦は不利と見た震国は、713年、唐王朝に再帰順することを決定する。以降、唐朝廷より渤海郡王に封じられると、渤海国と称されることとなった。

この渤海国時代、今の白山市臨江市に神鹿県が設置され、神州の州都を兼務した(下地図)。
873年、この神鹿県城内に、さらに鴨緑府が開設されると、神州の州役所と同居したことから「西京」と称され、渤海国南端の最大都市に成長していく。この時代、周囲の 桓州(今の 吉林省通化市 集安市)、豊州(今の 白山市撫松県)、正州(今の 吉林省通化市通化県の中心部)を統括した。下地図。
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その後、926年、西方より侵入してきた契丹族により渤海国が滅ぼされると、大契丹国(947年、遼へ国号変更)が建国される。以降も、旧渤海国の遺民らは遼王朝に抵抗しつつ、現在の白山市一帯の山岳地帯に立て籠もり、定安国という独立政権を樹立するも、最終的に 982年、遼王朝に完全平定されてしまうのだった。

この遼王朝の治世時代、東京道に統括される。しばらく後、 渤海国時代に「西京」として繁栄した 神鹿県城(今の 白山市臨江市)内に、渌州の州役所が開設されると、弘聞県と神郷県の 2県(今の白山市)、および 桓州(今の 吉林省通化市 集安市)、正州(今の 通化市通化県)、慕州(今の 通化市柳河県)の 3州を統轄することとなる。下地図。

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その遼王朝も、女真族が建国した金王朝により滅ぼされると(1125年)、以降、 400年近く君臨してきた 渌州城(弘聞県城)は荒廃し、無名の地へ没落してしまったようである。 それからは、東京路婆娑府(今の 遼寧省丹東市 振安区九連城鎮)に統轄される、田舎町に成り下がることとなった。

続いて、金王朝がモンゴル族の侵入により滅亡すると(1234年)、元王朝の治世下でも遼陽行中書省沈陽路に管轄され、特に行政機関が開設されることはなかった。続く明王朝の時代にも、奴児干都司下の建州衛と、長白山寺の寺社領に別れて統轄される。

明代中期以降、中国東北部では女真族が再び勢力を増し、1591年、現在の白山市一帯も、この女真族の族長ヌルハチの勢力圏に組み込まれる(1616年には後金朝を建国する)。
後金朝は最終的に中原へ進出し、明王朝を引き継いで中国大陸を統治すると(1644年、王都を 盛京 から 北京 へ遷都)、清王朝へ改名することとなる。以降、吉林副都統に属した。下地図。

白山市

時代は下って清代末期のころ、漢民族らの移民流入と農地開墾による人口増加、そして、ロシアや日本などの外国勢力の侵入に対抗すべく、東北地方での行政改革が急ピッチで推進されていく。

盛京将軍の增祺と、奉天府尹の玉恒による上奏を受け、1902年、清朝廷は 通化県 の東部を分離し、猫耳山に臨江県を新設する(そのまま吉林副都統の興京庁に帰属)。また同時に、帽児山巡検が今の白山市中心部へ移転され、八道江巡検へ改称される(当初は通化県に属したが、1908年以降は臨江県に統括される)。

1907年、東北地方で将軍制が廃止され、代わって行省制へ改編されると、現在の白山市一帯は、奉天省下の興京庁(今の 遼寧省撫順市 新賓満族自治県)が統括することとなった(下地図)。
1909年5月、林長海等処分巡兵備道が臨江県城内に併設される。以降、長白府(今の 白山市長白朝鮮族自治県長白鎮)、海龍府(今の 吉林省通化市 梅河口市海龍鎮)、および 臨江県、通化県、集安県を統括した(下地図)。

白山市

中華民国が建国された翌 1913年、奉天省内に 東路道、西路道、南路道、北路道、中路道の五路道が新設されると、現在の白山市一帯は奉天省東路道に属した。また 1915年には、八道江分防巡検(今の白山市中心部に開設されていた)が、八道江佐治局へ改編されるも、基本的な下位レベルの行政区画は、清末の体制がそのまま踏襲されることとなる。

1931年9月の満州事変を経て、日本軍が中国東北部を支配すると、1934年、安東省が新設され、これに統括される。1937年には通化省が新設されると、これに属した。
1945年、満州国が解体されると、直後の 1946年には遼寧省に属するも、共産党時代の 1954年8月20日に吉林省へ移籍されて、今日に至るわけである。

白山市

現在の白山市中心部は、清末の 1902年に 八道江巡検(旧・帽児山巡検)が開設されて以降、ようやく急成長を遂げることとなった、遅咲きの都市であるため、古城跡は存在しない。
この地域一帯を統括した行政庁は、この中心地から東へ 50 kmの地点にある、白山市臨江市に開設されていた。渤海国時代の 神州城(神鹿県城、鴨緑府城)、遼王朝時代の 渌州城(弘聞県城)、清代の臨江県城などが立地した古都である。

しかし、当時の城郭遺構はすべて撤去されており、路地名、地名にもほとんど往時の名残りは残されていなかった。古城スーパー、南囲子街(かつての南側外堀)、西順街、西市小区、通江路(かつての西側外堀)、東市小区、東順街、東市路 など。


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