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安陽市
訪問日:20--年-月-旬 『大陸西遊記』~
河南省 安陽市 ~ 人口 580万人、 一人当たり GDP 36,000 元
➠➠➠ 安陽市の 城跡リスト ➠➠➠
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安陽県城(【2代目】鄴県、相州城、魏郡城、彰徳府城、彰徳路城)
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曹操の墳墓跡
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林慮県城
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内黄県城
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長楽県城
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蕩陰県城(蕩源県城、湯陰県城)
【 安陽市の 歴史 】
約 25000~13000年の旧石器時代において、すでに安陽市一帯では人類の生息が確認されているという。小南海文化という古代文明を形成していたようである。
三皇五帝時代、五帝の一人であった顓頊が、王都を今の安陽市内黄県一帯に開設し、以後、78年もの間、華夏民族の王都として君臨することとなった。
紀元前 1300年ごろ、商王の盤庚の統治下、 王都が 奄の地(今の山東省曲阜市)から 北蒙の地(今の 安陽市中心部の北西)へ遷都されてくる。
このエリアは「殷」と通称されていた関係から、以後、商王朝は殷王朝とも別称されることとなる。当地には、8代 12王が即位し、254年もの間、商(殷)王朝の首都であり続けた。上地図。
その 商(殷)王朝も、紂王の治世下の紀元前 1046年、周国の武王が率いた諸侯連合軍により牧野の戦いで大敗を喫し、そのまま 商(殷)王朝は滅亡してしまう。直後に、武王により西周王朝が建国されるに至る。
春秋時代、安陽市一帯は当初、衛国に、後に晋国の版図下に組み込まれた。下地図。
戦国時代期には、晋国から独立した魏国の領土となる。
しかし、紀元前 275年、趙国の恵文王が廉頗を派遣し、魏国の房子城を攻撃させるも攻略ができず、続いて安陽市一帯へ進軍し、当地の占領に成功する。以後、趙国の版図下に組み込まれた。
紀元前 257年、秦の昭襄王は白起を派遣し、趙国の 王都・邯郸城を攻撃するも落とせず、その南部の支城、すなわち寧新中の軍事要塞を攻略する。秦国はこの寧新中を安陽城へ改称する。
秦の始皇帝は紀元前 221年に中原を統一すると、すぐに全国に郡県制を導入する。
このとき、今の安陽市エリアの 大部分(新設された安陽県を含む)は邯郸郡に帰属された。一部のみ河内郡の管轄下に置かれる。
秦の始皇帝が紀元前 210年に死去すると、翌年から中国全土で 農民、軍閥らの反乱が頻発するようになる。
このときに台頭した項羽が有名なエピソードを披露するのが、今の安陽市内黄県楚旺鎮で行われた渡河決行作戦である(紀元前 208年)。兵士らに 3日分の食糧のみ保持させて、退避用の船や食糧を焼却処分し、背水の陣で秦軍を攻めたて、これを大破した場所である。上地図。
前漢朝が建国された直後の紀元前 202年、安陽県が廃止され、南の 蕩陰県(今の 安陽市湯陰県)へ吸収合併される。以後、西晋時代に復活設置されるまで、安陽県は歴史からその存在を消すこととなった。
この期間、今の安陽市一帯は西部が河内郡に、東部が 魏郡(魏郡の郡役所は 鄴城【今の 河北省邯郸市臨漳県の南西部かつ、河南省安陽市の北郊外】に開設された)の管轄下に組み込まれていた。
後漢時代から西晋により三国が統一されるまで、河内郡は司隷校尉部の行政区に帰属された。一方、魏郡は冀州に属した。
後漢末期の動乱時代、袁紹の勢力圏下に組み込まれた。上地図。
200年に官途の戦いで袁紹を撃破した曹操は、袁紹没後(202年)に起きた袁氏の内紛に付け込み、袁氏一族を次々に各個撃破する中で、204年、袁尚の本拠地であった鄴城を奪取し、すぐに大改修工事を進める。
以後、曹操は鄴城に拠点を構えることとなり、その勢力の拡大にあわせて、後漢末期の 政治、経済、文化の実質的な中心都市として発展を遂げることとなる。
213年、曹操は魏王に封じられると、そのまま王都をこの鄴城に定める。
2009年末、今の安陽県安豊郷西高穴村で曹操の墳墓が発見されている。王都・鄴城のすぐ南側に埋葬されたということであろう。
220年、曹丕により後漢朝から権力禅譲が行われると、魏国の王都は洛陽城へ移転される。しかし、鄴城は引き続き、魏国下の五大主要都市の一角として君臨し続けた。
この時代、今の安陽市一帯は 魏郡(郡役所は鄴城に開設)と河内郡に分かれて統括される。
西晋朝の時代、司州魏郡(郡下には 8県が置かれた)に属し、西にあった 林慮県(今の 安陽市林州市)のみ 司州汲郡(河内郡より 分離・新設)の管轄下に置かれた。安陽県も復活設置されている。上地図。
下の地図は五胡十六国時代の華北地方の混戦状態を示したもの。
この時代、北方より多くの遊牧系民族らが南下し、短命な王権が数多く樹立された。この時代も引き続き、市域の大部分は魏郡に属した。また、鄴城には 後趙、冉魏、前燕の 3政権の王都が開設されることとなる。
五胡十六国時代を統一した北魏朝の治世下の 401年、鄴城は相州の州都と定められ、相州、魏郡、鄴県の 3行政庁が同時併設される。
534年、北魏から 分裂・独立した東魏は、鄴城を王都に定める。同時に、安陽県と蕩陰県が廃止され、鄴県に吸収合併された。
550年7月、高洋(東魏の 大丞相・高歓の次男)が東魏から権力禅譲を受け、北斉王朝を建国する。王都はそのまま鄴城内に開設された。下地図。
しかし、北斉の朝廷内では当初から、度重なる権力闘争が繰り広げられ、すぐに勢力を減じて早くも 577年、華北西部の北周により滅ぼされることとなる。上地図。
この領土拡大に成功した北周朝の静帝の治世を、楊堅が補佐することとなった。
580年、北周朝の丞相にまで登り詰めた楊堅は、自身に従わない相州(今の安陽市)総管尉の遲迥を討伐すると、未だ完全恭順の気質の弱かった旧北斉領の象徴である 王都・鄴城は放火され、完全に廃墟となるまで徹底破壊されてしまう。
このとき、相州、魏郡と鄴県の各役所と城内の居留民らはそのまま南側の安陽城へ移転された。以後、安陽城が鄴城に代わって、この地域の 政治、経済、文化の 中心都市(新鄴城と通称された)となる。かつての旧鄴県の行政区はそのまま安陽県へ吸収合併され、安陽県は鄴県へ改名された。後になって、旧鄴県跡に新たに霊芝県が設置される。
最終的に南朝の陳を滅ぼし(上地図)、南北朝時代を統一した隋王朝の 初代皇帝・楊堅(文帝)は、583年、全国の郡制を廃止し、州制と県制の 2行政区体制に再編する。
これにあわせて、安陽城内には相州と鄴県の 2役所のみ併設されるだけとなった。
590年、鄴県の県役所が旧鄴県城へ戻される。こうして安陽県の名称も復活されることとなった。
隋朝 2代目皇帝・煬帝の 治世下(605年)、州制が廃止され、郡県制が復活される。
こうして相州が廃止され、魏郡が復活設置されると、安陽県城が郡都に定められ、下に 11県を統括することとされた。
隋末には、今の安陽県滑県一帯で、翟讓と李密をリーダーとする 農民反乱(瓦崗軍)が決起される。これを発端に、全国で農民と群雄らの挙兵が連鎖的に勃発する。上地図。
唐代初期の 618年、魏郡(安陽県城)は相州へ改称され、その下に 8県を統括した。627年に全国が 10道に区分けされると、相州は河北道に帰属された。
742年~758年の一時期、相州は鄴郡へ変更されている。
安史の乱の折、安陽県城一帯でも大規模な戦闘が幾度も繰り広げられたため、県下の農村や集落は大いに荒廃した。
762年、唐朝 11代目皇帝に即位したばかりの代宗により、相州(安陽県城)を本拠地とする 史朝義(761年に父の史思明を暗殺し後を継いでいた)の追討軍が発せられる。
結束に欠いた史朝義の陣営は総崩れとなる。唐軍を前に、史朝義の部下である 薛嵩(薛仁貴の孫)は、すぐに唐節度使の李抱玉に投降してしまう。そして、翌 763年に史朝義も自刃に追い込まれることとなった(安史の乱の終結)。
唐朝は相州などの 6州を束ねる昭義軍を新設し、降将の薛嵩を昭義軍節度使に任命して、相州(安陽県城)を州都として監督させた。下地図。
なお、安史の乱も末期となっていた 758年、魏州と博州が魏博節度使として分離・新設され、田承嗣が魏博節度使に任命されていた。唐末にかけて魏博節度使の力が強大化し、最終的に相州は魏博節度使の版図下に組み込まれる。上地図。
宋代初期、相州(安陽県城)は河北西路に所属され、あわせて彰徳軍節度が併設された。下地図。
金代の 1192年、相州が彰徳府へ昇格され、その下に 5県を統括する。
元代には、彰徳府が彰徳路へ改編され、中書省の直轄下に配された。
明代、清代には 彰徳府(河南省に所属)へ戻され、6県と 1州(磁州)を管轄した。
1912年に中華民国が成立すると、翌 1913年には彰徳府が廃止され、安陽県役所だけとなる。河南省豫北道(1914年に河北道へ変更)の管轄下に組み込まれた。
最終的に 1927年、道制が廃止されたため、安陽県は他の県城と同列で、河南省の直轄下に置かれる。
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