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安徽省 地図
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安慶市
訪問日:20--年-月-旬 『大陸西遊記』~
安徽省 安慶市 ~ 人口 475万人、 一人当たり GDP 38,000 元
➠➠➠ 安慶市内の 城跡リスト ➠➠➠
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【二代目】懐寧県城(【二代目】安慶府城、【二代目】安徽省城)
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【初代】懐寧県城(皖国王都、皖県城、廬江郡城、潜山県城、晋州城、舒州城、安慶府城)
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舒県城(【初代】廬江郡城)
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同安県城(桐城県城)
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居巣県城
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新冶県城
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望江県城
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宿松県城
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太湖県城
【 安慶市の 歴史 】
1992年、安慶市潜山市彭嶺で 157点もの磨製石器が発見されたことから、 10万年の旧石器時代、すでに古代人類が生息していたことが分かっている。この安慶市潜山市一帯に分布する 20か所以上の新石器時代遺跡に関しても、 5000~7000年前に発達した「薛家崗文化」と称される当地特有の古代文明圏が確認されており、彼らの集落が現在の市街地の原型となった軌跡が立証されたという。
春秋時代、皖国(今の 安慶市潜山市梅城鎮)、桐国、宗国、舒国 などの小封国が割拠していたが(下地図)、後に楚国と呉国に併合されていった。戦国時代期には、完全に楚国の版図下に組み込まれる。
秦が中原を統一すると、九江郡に属する。
前漢時代初期の紀元前 203年、劉邦(紀元前 247~前 195年)は、項羽討伐で協力した九江王の英布を淮南王に封じ、淮南王国を建国させる。王都は 六県城(今の
安徽省六安市
)に開設され、九江郡、廬江郡、豫章郡の 3郡を統括することとされた。その後、劉邦が功臣の粛清を始めたことに疑心暗鬼となり、紀元前 196年、英布もまた挙兵し、敗死に追い込まれる。そのまま、劉邦は自身の第 7子・劉長に淮南王を継承させる(王都は、寿春県城へ移転される)。
紀元前 82年には、松兹侯国が新設される(廬江郡に帰属)。王都は、今の安慶市宿松県の東部にある、北凉亭河の 河畔(旧名:仙田鋪)に開設されていた。後漢時代に廃止される。
後漢時代末期の 193年、廬江郡役所が 皖県城(今の 安慶市潜山県)へ移転される(もともとの郡都は、今の
安徽省合肥市
廬江県の西部 10kmの地点にあった)。下地図。
三国時代、最初は魏領だったが、後に孫呉に併合される。
東晋時代の 410年代、廬江郡から晋熙郡が 分離・新設される。皖県が 懐寧県(県役所は、今の安慶市潜山市)へ改編され、また同時に、新冶県(県役所は、今の安慶市望江県)が分離・新設される。
この南北朝時代、晋熙郡が豫州へ改編された後、梁王朝がこの豫州を熙州へ、また後に晋州へ改名する。北朝の北斉王朝が当地を併合すると江州へ変更されるも、再び、南朝の陳王朝が奪還すると晋州へ戻されていた。当時、現在の安慶市エリアは、まさに南北朝対立の最前線地帯に位置していたのだった。
581年に北朝で隋王朝が成立すると、再び南下政策が進められ、長江北岸まで北朝勢力が迫ることとなる。その占領下に入った 583年、晋州は熙州へ戻され、配下の 3郡4県がそのまま踏襲される。州都も、懐寧県城(今の 安慶市潜山県)で続投された。
隋朝 2代目皇帝として煬帝が即位した直後の 607年、熙州は同安郡へ改編される(郡役所はそのまま懐寧県城)。この時、懐寧県、同安県、太湖県、宿松県、望江県の 5県を統括した。
唐代初期の 621年、同安郡は再び舒州へ戻される(淮南道に帰属。上地図)。 742年、舒州は同安郡へ、757年に盛唐郡へ改称される。
五代十国時代、同安郡は再度、舒州へ戻され、懐寧県城を州都として、引き続き、5県を統括した。この時代は、呉、南唐、そして後周王朝と、目まぐるしく支配者の変更が加えられるも、行政区はこのまま踏襲される。
北宋時代の 1115年、舒州徳慶軍が設置される。
南宋時代の 1147年、徳慶軍が安慶軍へ改編される(以後、「安慶」の名称は、今日まで永続して使用される)。
1195年、舒州が昇格され安慶府となると、引き続き、懐寧県城が府都を兼務した。1217年、府長官の黄干が、新たに 安慶城(同じく、今の安慶市潜山市内)を築城する。続いて 1260年、今の安慶市中心部の長江河岸にさらに別の安慶府城の築城が着手され、懐寧県役所もここに移転されてくることとなった。以後、安慶府城は府役所、県役所を同時併設する城郭都市となり、今日の安慶市中心部の基礎を成していくわけである。下地図。
元代の 1276年、安慶府が安慶路へ改編される(懐寧県、桐城県、太湖県、宿松県、望江県、潜山県の 6県を統括)。 1323年、懐寧県下の清朝郷と玉照郷の 2郷が分離され、潜山県側へ移籍される。
1361年8月、モンゴル軍を駆逐した朱元璋が当地を占領すると、安慶路は寧江府へ改編されるも、翌 1362年すぐに安慶府へ戻される。配下の 6県はそのまま踏襲された(上地図)。
明代初期の 1403年、直隷南京(別称:南直隷)が設置されると、安慶府はこれに属した。
清代の 1661年、安慶府は 江南左布政使司(本部は江寧府城 ー 今の
江蘇省南京市
)に統括される。 1667年、江南左布政使司が、安徽布政使司(略称:安徽省)へ改編されると、そのまま省都は江寧府城が継承される。1760年、安徽省役所が江寧府城から安慶府城へ移転されると、安慶府城が初めて【二代目】省都となる。これ以降、省都、府都、県都のすべてを兼務し、当エリア随一の大都市として繁栄していくこととなった。
1853年、太平軍の攻撃により、安慶府城が陥落すると(上地図)、 清朝廷は省役所を 廬州府城(今の
安徽省合肥市
。上地図)へ移転させる。対して太平軍は、安慶府を安慶郡へ改編させる。最終的に清軍が安慶城を再奪取すると、1861年、府役所が安慶府城へ戻される。1865年、安廬滁和道が新設されると、同じく安慶府城に開設される(1908年廃止)。
中華民国の成立により、全国で府制度が廃止されると、1912年、安慶府が廃止され、すべての県は安徽省直轄となる。しかし、中華民国時代、共産党時代を通じて、引き続き、安慶県城は一帯の中核都市として君臨し続けた。共産党時代の 1952年以降、安徽省の省都は
合肥市
となる。
なお、現在、安徽省の略称は「皖」であるが、これは 4000年前の東周時代、かつて安徽省安慶市に皖国があった歴史に由来している。また、東晋時代の 文化人・郭璞(276~324年。
山西省運城市
聞喜県出身。西晋時代に建平太守となった郭瑗の子。東晋時代に入り、文学家、書道家、詩人として大成した)が、「ここは宜城」と詠んだことから、安慶市は「宜城」とも別称される。
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